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ゆくはし今昔物語

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福岡県行橋市

2024年、市制70周年を迎える行橋市。山や海に囲まれ、京築地域の中核として人が行き交い、歴史と文化が育まれてきました。昔懐かしい行橋の風景や町なみの、「今」と「昔」をご覧ください。

◆~Vol.16 新田原の果樹園
「私しゃ行橋 果樹園仲津~♪」。初代行橋市長・末松實藏が作詞した「行橋音頭」の一節です。この歌詞が示すよう、仲津といえば果樹園というように、仲津校区のある新田原一帯は明治時代に開墾されて果樹園地帯が形成され、九州で有数の果物生産地として、行橋の産業の一端を支えてきました。今回は新田原の果樹園の今昔を探っていきます。

◇1921年/大正10年 藤原果樹園の桃畑
「新田原」はその名のとおり、明治時代に新たに開墾された地域です。稲童の城戸厳治のはからいで、明治27年(1894)、広島から移住してきた村上治作、藤原吉兵衛が桃を作付け、3年後の明治30年に収穫したのが新田原の本格的な果樹栽培の始まりとされます。これは福岡県下の桃栽培第1号でした。その後、明治30年(1897)に豊州鉄道の行橋―柳ヶ浦間が開通し、新田原駅が開業。広島、岡山、愛媛の果樹栽培者の入植が続き、ナシやブドウの栽培も始まります。こうして「新田原」を含む京都郡内は、1920年代には桃は県下の32%、ナシは16%のシェアを占める一大果樹生産地へと発展しました。

・(本紙写真)桃の袋かけを終えた藤原果樹園の人たち。前列右から3番目の椅子に座る老人が当時74歳の藤原吉兵衛。大正時代の桃畑の様子がよく分かる。

◇2024年/令和6年 フルーツの郷・新田原
大正15年(1926)に祓郷村(現・みやこ町呰見)にトラピスト修道院が開設され、長崎・五島から多くの島民が現在の東徳永に入植。果樹栽培を生業とし、新田原の果樹栽培は最盛期を迎えます。戦中から戦後にかけては作付け統制などで一時荒廃しましたが、昭和27年(1952)頃より、再植により復興。桃やナシの生産に代わってブドウが新田原の果樹栽培の中心を占めるようになりました。
そして令和を迎えた現在、いちじくが生産高の中核となり、次いで桃、ナシと続きます。また、いちじくを用いたジャムや菓子などの加工品も多く生み出され、特に「いちじく想花」は行橋土産の代表格となっています。

・(本紙写真)ハウス栽培のいちじくの収穫の様子。品種は「蓬莱柿(ほうらいし)」。他には「とよみつひめ」などがある。近年はキウイフルーツ「甘うい」の栽培も行っている。

現在、新田原の果樹園は少しずつ減少傾向にあります。原因は園主の高齢化と後継者不足によるものです。これに対し、令和5年(2023)3月、「株式会社ふるさぽ新田原」が設立され、様々な支援が行われるようになりました。
陽春の新田原を彩る桃やナシの花。「フルーツの郷・新田原」を百年後の未来へと残していくターニングポイントはもう来ているのかもしれません。

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