村上仏山(ぶつざん)は天保六年(一八三五)に上稗田村に私塾「水哉園(すいさいえん)」を開き、末松謙澄をはじめ優れた人材を数多く育てた教育者、漢詩人。この連載では仏山と関わった人々を通して、江戸時代から近代の学問や教育について考えます。
◆原古処(はらこしょ)
文政七年(一八二四)十五歳になった村上仏山は、筑前秋月(朝倉市)へ遊学に向かった。秋月をめざしたのは、そこに原古処という名高い漢詩人がいたからである。
原古処は秋月藩士手塚甚兵衛の二男として明和四年(一七六七)に生まれ、十六歳で秋月藩の藩校稽古館(けいこかん)教授原坦斎(たんさい)の養子となった。十八歳で福岡藩の亀井南冥(なんめい)の門に入り、南冥から「詩文の才能は自分以上」と評された。
秋月に戻った古処は、寛政十二年(一八〇〇)三十四歳で養父の後を継ぎ稽古館の教授に就任。文化二年(一八〇五)には藩主の許可を得て、私塾「古処山堂」を開設した。その後藩の要職に任じられ、藩主の参勤交代にも随行。江戸で諸国の文人墨客と交流するなど、充実した日々を過ごした。しかし文化九年(一八一二)、親しくしていた家老の失脚などから、古処は稽古館教授や藩の役職を失うこととなる。
翌年、古処は長男瑛太郎(白圭(はくけい))に家督を譲って四十七歳で隠居する。その後は九州や中国地方を旅し、広瀬淡窓(たんそう)や頼山陽(らいさんよう)など文人たちとの交わりを深め、悠々自適に過ごした。旅には娘の猷(みち)(采蘋(さいひん))をはじめ家族をともなうこともあった。
仏山が古処の門を叩いたのは、古処の晩年でそろそろ六十の歳を迎えようとする頃であった。入門した仏山は古処を慕い、古処もまた仏山の詩才を愛したが、文政九年(一八二六)の年末に古処が病に倒れたため、仏山はやむなく故郷の上稗田に帰った。翌年の一月、原古処は六十一歳で世を去った。
「古処」の号は秋月城下から仰ぐ「古処山」からとったものである。村上仏山もまた家から望む「仏山(ほとぎやま)」(御所ケ岳)を号とした。師の古処にならってのことであろう。また仏山は水哉園で、毎年古処の忌日に詩会を開き恩師を偲んだ。
(末松謙澄顕彰会 小川秀樹)
◆原白圭と采蘋
原白圭は筑前秋月藩の儒官原古処の長男。寛政六年(一七九四)に生まれ、藩校稽古館および父古処に学ぶ。十四、五歳ごろ福岡藩の亀井南溟、昭陽に学ぶ。若くして漢学に長じ、詩才も発揮して神童と讃えられたという。のちに稽古館の訓導になり、二十歳で家督を相続するが、生涯病に悩まされ、三十歳で隠居。
原采蘋は江戸時代の代表的な女性漢詩人の一人。父古処は采蘋にたいして男性とすこしも変わらない教育をした。采蘋は病弱の兄弟と違い、大柄でたくましく、美人であったといわれている。学問も進み、詩にも才能を発揮。父とともに広瀨淡窓の咸宜園(大分県日田市)を訪れ、門人たちと詩会を開き、驚かせたという。生涯の大半を旅で過ごして一流の詩人たちと交流した。
村上仏山にとって、父の古処と長男白圭、長女采蘋の三人は短期間ではあったが、恩師であった。仏山は文政七年(一八二四)、十五歳の時、原古処の塾に兄と従兄弟とともに入門し、漢学を学んだ。その間、師の古処が留守の時は、白圭、采蘋が代講を務めたので、仏山の兄弟は白圭、采蘋からも教えを受けた。しかし、古処の病で帰郷した。
ところが、文政十年ごろ、白圭は弓の師(築上町)の医師の家で病気療養中、時々、みやこ町岩熊の藤本平山の「巌邑堂」で漢学を講義していた。仏山はそれを聞き、早速、駆けつけて、白圭の気迫のこもった厳しい指導を受けた。妹の采蘋もやってきて漢学の講義をし、詩作を指導した。
嘉永元年(一八四八)、采蘋は江戸での二十年間の生活を終えて、晩年山家(やまえ)(筑紫野市)で私塾を開いた。一方、仏山の水哉園は隆盛になり、詩人としても知られていた。采蘋はこれを喜び、詩を贈っている。
「隣国豊前の知り合いのあなた(仏山)を尋ねてきて、亡くなった兄や弟のことを聞いて、いたずらに悲しみなげいたが、幸いなことにはあなたが学業を後世に伝えてくれて、我が家学が遠方にまで広まるのが喜ばしい」(原文は漢詩)と。仏山はこの詩をいつまでも大切にしていた。
(末松謙澄顕彰会 城戸淳一)
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