■長倉館跡(ながくらたてあと)周辺の地名
▽令和5年度第3回企画展 伊達市発掘調査速報展
3/31(日)まで
伊達市保原歴史文化資料館
鎌倉時代から戦国時代にかけての長倉館跡周辺の歴史は不明な点が多いですが、数少ない文献の記録に長倉館跡周辺の地名が確認されています。
伊達稙宗(たねむね)(14代)・晴宗(はるむね)(15代)親子が争った天文の乱(1542~1548年)前後の二人が発給した、所領の宛行状(あてがいじょう)や安堵状(あんどじょう)の中に長倉館跡周辺の地名が記載されています。
長倉郷内の地名は、「弦巻田(つるまきだ)」・「北の後」・「素麺田(そうめんでん)」・「道間」・「前川原」・「東の畠」・「河原田」・「天神の前畠」・「深田」・「稲荷の後畠」・「馬場の深田」があります。そのほか宝寿寺や慈眼寺が売った田畑に「さつこ内田畠」・「河原畠」・「壇の前」・「弦巻田」・「馬場口」、吉祥庵が売った「弦巻の畠」・「沢田」・「蓬田」などの地名があり、これらは現在の旧伊達町内に字名(あざめい)や住宅団地の名称として使われています。
明治時代の地籍図と現在の地図を重ねると、きれいな単郭の長倉館跡が復元されます。字名の「舘ノ内」は館内部の地名で、他に「片町」・「本町」・「南堀」・「根岸」・「沓形(くつがた)」・「北後(きたうしろ)」などの字名が残っています。片町・本町は中世集落・町場の名残です。中世の奥大道(おくだいどう)から長倉館につながる道は、北側に牛頭天王(ごずてんのう)を祭る八雲神社・宝寿寺などがあり、中世の景観を残していると考えられます。南堀から根岸にかけては傾斜した低湿地帯であったと考えられ、館の防御機能を果たしたと推定されます。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>