■「三貫地貝塚の暮らしと縄文人」
三貫地貝塚里帰り展示が新地町文化交流センター観海ホールで10月14日~22日までの9日間開催されました。
今回の企画は、福島県立博物館との共催で「資料展示活用アウトリーチ事業」を活用しての事業となりました。昭和63年に日本考古学協会から県立博物館へ移譲された三貫地貝塚の資料群や福島県立相馬高等学校の郷土部で収蔵している資料を里帰りさせることで、町民の皆様を始め広く多くの方に三貫地貝塚を知ってもらおうと企画したものです。
9日間の開催で延べ1,385名の来場があり、町外からもご来場いただきました。
10月14日にはオープニングセレモニーの後に福島県立博物館専門学芸員の髙橋満氏による記念講演が行われました。
記念講演では、新沼浦が干拓される前の状態や相馬地域開発に伴って調査された地質調査の結果から、縄文時代後期から晩期頃(現在から3,000年から4,000年ほど前)は、三貫地貝塚周辺は海の沿岸部が近くまできていたことが分かり、山と海の大きな恵みが期待できる絶好のロケーションで、住むのに適した比較的広大な平坦地という好条件を兼ね備えていたとの解説がありました。
続いて土器や漁労、狩猟に使用された骨角器(シカの角や骨で作られた道具)について解説され、なかには狩猟中、誤って味方の矢に射られ、矢じりが刺さった状態の腰骨の話など危険で厳しい環境のなかでの生活であったこと。しかしそうした生活のなかでも、大きな耳環(ピアス)や貝を加工した腕輪、シカの骨を加工した腰飾りなどの装身具、おそらくは祭祀や儀礼に用いられたと考えられる相馬高校所蔵の土製のお面、遮光器土偶などが紹介され、豊かな文化を築いていたとの話がありました。
最後に、三貫地貝塚から出土した昭和27年の調査で確認された50体を超える人骨の埋葬方法について、多くの人骨の頭部が鹿狼山の山頂を向けて埋葬されており、鹿狼山を特別視していた可能性があると解説され、記念講演は幕を閉じました。
期間中には、町内の小中学生が地域学習の時間として、展示会と三貫地貝塚の現地を見学しました。
◆令和5年度福島特定原子力施設地域振興交付金事業
○三貫地貝塚の調査経歴と資料について
三貫地貝塚は明治27年、相馬市中村の舘岡虎三氏により発見され、その名が知られるようになりました。大正13年には福島県知事の依頼を受けて、日本考古学協会が調査を行い3体の人骨を確認しました。このことから三貫地貝塚は人骨が出土する遺跡として名前が知られるようになり、昭和27年には、日本考古学協会の縄文式文化特別編年委員会によって学術調査がなされ、50体を超える人骨が出土し、全国的に有名な貝塚となりましたが、その後、諸般の事情が重なって、この時の詳細な報告がなされていないままとなっていました。昭和61年に福島県立博物館が開館した際に、福島県を代表する貝塚として、常設展のメインに据えることを目的に、博物館が当時の資料を再整理、報告書を刊行したことで、多くの資料が日本考古学協会から博物館へ委譲される運びとなりました。
町では、令和5年度福島特定原子力施設地域振興交付金事業を活用して今回の企画展と町内にある文化財5か所に新しく看板を設置しました。
この機会に、ぜひ町の文化財に触れ、ふるさとの歴史を探求してみてください。
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