■姫君と名馬(後編)
ある日の朝、糠塚権太夫(ぬかづかごんだゆう)が新地の浜辺で一艘(そう)のうつぼ舟※1を見つけたと。舟の中には、見たこともない美しい姫が倒れていたった。浜の人たちが、姫のその美しさに、神さまが舞い降りてきたかと思うほどだったと。それで舟が着いた浜を「今神」と呼ぶことにしたんだと。権太夫に助けられた姫は、次第に元気になっていったと。姫のお腹に赤ん坊がいることを知った権太夫は、浜風が障るのを心配して、半里ほど西の菅谷の里に姫を移して住まわせたと。
一方、今帝駒(きんていごま)は、姫が流されてからずっと厩(うまや)に閉じ込められて、逃げないように厳重に見張られていだったとも、ある晩のこと、見張りが油断した隙に逃げ出したと。すぐに追手がかかったども、今帝駒は姫に会いたい一心で必死になって、懐かしい姫がいる、みちのくを目指して走ったと。
ある日の朝、馬のいななき声が聞こえたような気がして、姫が外に出てみて驚いた。そこにいたのは会いたかったあの今帝駒なんだもの。
「今帝駒…本当に今帝駒なんだね。都からはるばる来てくれたんだね。」
姫は今帝駒の首にすがって泣いたと。
「今帝駒、名残惜しいが、いつまでもこうしているわけにはいかない。追手がすぐそこまで来ているから、見つからないように逃げるんだよ。」
姫はそう言って今帝駒を裏道から逃がしてやった。今帝駒は姫の方を振り返り、振り返り、逃げていったと。後にこの嶺を「駒かえりの嶺」-「駒ケ嶺」と呼ぶようになったんだと。
月日は流れ、月が満ちて姫は赤ん坊を産んだ。ところがどういうわけだか、赤ん坊は姫に会うことなく連れ去られ、乳母に預けられてしまった。姫が「ややは元気にしているか」と聞けば、権太夫は「はぁ…元気でございます」と言うばかりで、姫のところに赤ん坊を連れてこないんだと。姫が毎日、毎日、赤ん坊の顔が見たいと言うので、権太夫もとうとう根負けして、会わせる約束をしてしまったと。
「姫様、やや様を連れてきますから、池の橋の上で待っていて下され。」
姫が池の橋の上で待っていると、権太夫が赤ん坊を抱いてきた。姫が駆け寄って権太夫から抱き取ろうとしたれば、「姫様、どうか池の水面をご覧くだされ。」と言って、赤ん坊の顔を池の水面に映して見せたと。
水面に映った我が子。そこに映っていたのは、馬の顔だったと。姫は驚いてその場にばたりと倒れてそのまま亡くなってしまった。赤ん坊もまた姫の後を追うように亡くなってしまった。権太夫は悲しんで、姫と赤ん坊の亡骸を山の麓に埋めて供養し、その山に「母山」と名前をつけた。今は「羽山」と呼ばれているあの山のことだわ。
さらに権太夫は悲しんで、姫と赤ん坊を思い、社を造り祀ったのが「子眉嶺神社」なんだと。
今帝駒は追手を振り切って何とか関東まで逃げたんだが、とうとう捕まって槍で刺されて殺されてしまったそうだ。今帝駒が亡くなった場所にできた神社を「関東の相善」と呼び、姫が亡くなった場所の神社を「奥の相善」と呼んで、馬神様としてお祀りしたと。「相善」というのは葦毛四白の馬のことで、相善神社は馬を守る神様として、今でも信仰を集めているんだと。
※1 うつぼ舟…空舟。大木をくりぬいて作られた舟のこと。
新地語ってみっ会では、語り部による昔話や紙芝居など毎月第3土曜日13時30分から二羽渡神社南、おがわ観海堂(小野俊雄宅離れ)にて参加費無料で、公開しています。興味のある方はぜひご参加ください。
問い合わせ:新地語ってみっ会
【電話】62-2441
<この記事についてアンケートにご協力ください。>