地域おこし協力隊 松尾 悠亮
◆小中津川名主家文書の紹介(5) 『公私摘要』の紹介〔弐〕
先月に引き続き『公私摘要(こうしてきよう)』という昭和村の記録を紹介します。『公私摘要』初遍(第一冊)は、「異国人来朝以来所々争乱事変之事」という見出しから始まります。「異国人来朝」というのは、嘉永6年(1853)のペリー来航のことです。見出しに引き続き箇条書きで、著者栗城義綱が見聞したと思われることや、江戸幕府・会津藩から出された御触の写が書かれています。全ての記事を紹介することは難しいので、特に昭和村、そして有名な事件に関する記事の中から選んで、今月は戊辰戦争までのものを一部紹介します。
1.会津御蔵入領が会津藩領へ編入
江戸時代、昭和村(野尻組)を始めとする奥会津の村々は南山御蔵入地と呼ばれ、江戸幕府の直轄地でした。預地として幕府に代わり会津藩が治めた時期がありますが、文久3年(1863)、最終的に会津藩領へ編入されました。
『公私摘要』には、文久3年の会津藩領への編入にあたり、代官所から金山谷四ヶ組触継村々名主へ出された御触の写(11月25日付)が入っています。
その内容は、11月11日に代官が江戸幕府の勘定奉行(「御勘定所」)へ呼び出されたところ、陸奥国会津大沼郡5万5千9百55石余は会津藩へ編入することになり次のように言われた。「文久3年の年貢(「当亥年物成」)は代官へ納める事。ただし、「酒造冥加永」(酒造した時に課される雑税)については、会津藩(「御料所」)へ残すよう取り計らうように。」
2.会津藩の京都守護に伴う人足の募集
会津藩主松平容保は、文久2年(1862)から京都守護職を勤めていましたが、遠い京都での仕事は会津藩にとって大きな負担になっていたようです。
元治元年(1864)、「御蔵入役所」から出された御触の写では、京都人足が募集されています。人足役として徴収してしまうと村の負担になってしまうので、人足に応じた人には給金(最初16両、主人から4両、都合20両、段々値上がり)を支払うとされています。実際に昭和村(野尻組)から人足として京都へ行った人がいたのかは分かりません。
3.池田屋事件と禁門の変
元治元年7月19日、前年の「八月十八日の政変」で京都を追われていた長州藩が、会津・薩摩両藩を相手に京都で蜂起しました。この事件は、「禁門の変」または「蛤御門の変」として幕末史の一大事件としてよく知られています。『公私摘要』では、「同年(元治元)七月十九日京都大騒動」として詳しく書かれています。「禁門の変」では、沼沢から人足として京都へ行った人が戦場で亡くなり、さらに針生から行っていた人も一人亡くなったそうです。
ところで、『公私摘要』では変の発端となった池田屋事件のことについても「古高俊太郎事、桝屋喜右衛門ト唱〔割注略〕、怪敷所行在之…」と触れられています。ただ、残念ながら新撰組の名前はここでは出てきません。
この他にも嘉永年間からの色々な出来事が『公私摘要』には書かれています。来月は戊辰戦争についての記事を紹介します〔続〕。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。
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