■田村市初の衆議院議員 菅村太事(すがむらふとじ)
衆議院議員総選挙の第1回は今から133年前の明治23(1890)年7月に行われました。福島県からは7人が当選し、その中に三春出身の河野広中(こうのひろなか)(以下、河野)がいました。河野は戊辰(ぼしん)戦争後、自由民権思想に目覚め、福島県議会、国会へと活躍の場を移し、第1回から第14回まで連続当選し、衆議院議長などを歴任しました(河野は明治6(1873)年に常葉戸長を務めていました)。
その河野の影響を受けて自由民権運動に参加した田村市の若者たちがいました。菅村太事(以下、菅村。1863~1934)はそのうちの一人です。菅村は北鹿又村(現・船引町北鹿又)に生まれ、10代の頃より自由民権運動に参加して活動しました。美山村会議員、美山村長、福島県会議員となり、河野が死去すると後継者として大正13(1924)年5月に行われた第15回衆議院議員総選挙に立候補し当選します。ここに田村市初の衆議院議員が誕生しました。菅村は第17回まで3期連続で当選を果たします。菅村の功績をたたえる顕彰碑(けんしょうひ)が美山小学校の登り口に建っています。
なお、菅村に続いて衆議院議員になった人物に助川啓四郎(すけがわけいしろう)がいます(以下、助川。1887~1943)。助川は片曽根村(現・船引町船引)に生まれ、14歳で上京。早稲田中学に入学し、早稲田実業学校、早稲田大学へと進みます。帰村して大正4(1915)年、28歳の時に片曽根村長に就任しました。その後、福島県議会議員となり、昭和5(1930)年2月に行われた第17回衆議院議員総選挙に立候補し補欠当選します。助川は第21回まで5期連続で当選を果たしますが、議員任期中の昭和18(1943)年に満州に向かう途中、玄界灘(げんかいなだ)で遭難(そうなん)し、その生涯を終えました。余談(よだん)ですが、この助川には早稲田実業学校からの旧友として竹久夢二(たけひさゆめじ)(以下、夢二)がいました。夢二は数多くの美人画を描き、その作品は「夢二式美人画」とも呼ばれ、また児童雑誌の挿絵やデザイナーとしても活躍した大正ロマンを代表する画家の一人です。その夢二が大正10(1921)年と昭和5年の2回、助川を船引町に訪ね、画会を開催しています。「2人の出会いの心を大切にし、文化の窓を広げたい」という目的で、昭和55(1980)年に市図書館の2階に「夢二ルーム」を設け、夢二の書画や書籍などとあわせて助川の関連資料なども展示しています。
※今回掲載の人物は市史5「田村市ゆかりの人物」にまとめてありますので、興味のある方はぜひお手にとってご覧ください。
次回は「坂上田村麻呂(1)」を紹介する予定です。
(※田村市の文化財一覧は本紙またはPDF版の二次元コードからご確認ください。)
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