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自治体の皆さまへ

ふるさとへの便り

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秋田県東成瀬村

■私が住んでいる〝群馬県〟〝伊勢崎市〟を紹介します(後)
○伊勢崎市はこんなところ
我が家のある伊勢崎市は人口21万人、移動して来た当時(1985年)より50%増加している。周辺の町村合併の経緯も有るが、市内のインフラ整備が進み、工業団地への企業誘致に伴う住宅街の開発が人口増加を促したようである。
伊勢崎市や近隣の市は工業が発展していた。代表的な企業は戦時中まで戦闘機を製造していた中島飛行機。太田市にあって、零戦、紫電改、疾風等の戦闘機、そのエンジンの製造をしていた記録が群馬の歴史に残されている。
飛行機のエンジン製造は、中島飛行機製(N-35)と三菱製(M-35)が同じモデル。日本の飛行機エンジンを二分する「飛行機会社のパイオニア」としての役目を果たしていた。

戦後GHQの指導で、飛行機製造は禁止されたが、当時の技術部門メンバーが(5部門)結束し現在の富士重工を立ち上げた。エンブレムの「5星」はそのメンバーを表したデザインという。今では懐かしいラビットスクーターは伊勢崎工場で、スバル360(軽自動車)は太田工場でスタートし今に至っている。
また、家電メーカーの東京三洋(現パナソニック)と三菱電機、ダイハツ、宝ビール(現サッポロ)や沖電気など、戦後の上場企業進出が工業を盛んにした。こうした企業の協力メーカーや設備関係の企業も加わり、町を発展させてきた経緯が想像できる。それにこの地域は農家も多い。麦と米の二毛作や野菜の種類も沢山できる気候に恵まれている。麦を扱う食品会社が市内に進出していることからも窺(うかが)える。
伊勢崎市内の北には「AUTOMIRAI公園(旧華蔵寺公園)」があり、東京ドーム6倍ぐらい広い敷地内には、運動場、体育館、遊園地(20機ほど)があり、幼児から大人まで楽しめるようになっている。孫たちは遊園地で遊ぶのが大好きで、我が家に来るとまっさきに「遊園地」と言う。待ち時間がほとんどなく並ばずに乗れる。大人にも大助かりの遊園地である。遊園地の周りは森林や芝生の広場になっており家族連れが多い。さらに、南には「みらい公園」がある。こちらは東京ドーム3倍ぐらいの広さで、サッカー場、約1kmの遊歩道、噴水、人口小川、BBQエリアがある。落葉樹も沢山植栽されている。2月になると蝋梅、白梅、紅梅が咲き始め、月半ばからは本100の河津桜が、芝生の丘に咲き出す。この丘からは、上毛三山の稜線の奥に聳える谷川岳、武尊山(ほたかさん)、男体山、浅間山が見える。雪を被った山々が5月の末まで見られる。

明治時代から養蚕が盛んなこの地方。戦前は日本の80%が北関東で生産されていた。近くには世界遺産に指定された「富岡製糸場」がある。明治5年(1872年)にフランスの技術を取り入れて設立され、当時は世界最大の近代的工場であり、その生産は1987年まで続いた。養蚕の生産性を確立した伊勢崎市の田島弥平旧宅も同時に世界遺産に登録されている。明治、大正、昭和、平成の歴代皇后様がこの田島弥平旧宅を訪れている。御所においては現在も養蚕が皇后様・愛子様に営まれている。その様子が今年もTVで放映されていた。(明治の頃は伊勢崎から御所まで指導に行ったとの記録がある)

戦前は、絹の靴下として(現ストッキング)の素材が世界で圧倒的なシェアを誇っていた。ところが、戦後、米国デュポン社が開発した「ナイロン」が靴下に使われようになると「絹」の輸出が激減した。絹のシェア拡大(日本)に対抗するデュポン社は、「NYRON」の靴下製品化に思いがあったようだ。因みに、nyron(ナイロン)の名前の由来は様々な説があるようだ。デュポン社は、絹より丈夫で伝線しないことから、NO-RUN(走らない)としたかったらしいが、ストッキングに使ったら伝線した。そんなこともあり登録商標や発音から「nyron」と決めたと言われてる。

住んでいると…あまり知られていない群馬の歴史も気になる。戦国時代には、越後、甲斐信濃、遠江駿河、相模武蔵の領地争いに巻き込まれた時代がある。戦国の激しい勢力争い。この地方でも熾烈な戦いが繰り広げられた。そのような時代も知りたい。

伊勢崎市在住
谷藤信男

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