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小美玉市の歴史を知ろう66

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茨城県小美玉市

■「玉里古墳群」ー百年に至る首長の墓ー
◇玉里古墳群とは
霞ケ浦北岸に位置し、半島状に張り出した玉里地区には、5世紀末から6世紀後半に至る約100年間に首長墓(しゅちょうぼ)と考えられる前方後円墳が築造されました。その数は、墳丘長50~90mの前方後円墳で7基であり、50m級の帆立貝(ほたてがい)形古墳2基もその列に加わります。その中でもお互い1km以内にある6基の前方後円墳が含まれる古墳群を総じて玉里古墳群と呼んでいます。

◇古墳の数と墳形
筑波山南東麓から延びる台地と微高地上に総数71基が所在します。墳形別では、前方後円墳8基、帆立貝形古墳3基、円墳54基、方墳1基、不明5基です。古墳の大きさは70~90mの前方後円墳4基(権現山古墳、舟塚古墳、山田峰古墳、滝台古墳)、50~60mの前方後円墳2基(閑居(かんきょ)台古墳、桃山古墳)、50m級の帆立貝形古墳2基(雷電山古墳、愛宕塚古墳)、40~50mの大型円墳3基(塚山古墳、天神塚古墳、岡岩屋古墳)があります。

◇築造時期
5世紀前半…4世紀前半に方形周(ほうけいしゅう)溝墓(こうぼ)である権現平古墳群第2、4号墳が築造されますが、5世紀前半に円墳である塚山古墳(50m)から本格的に開始されます。5世紀の霞ケ浦高浜入りでの前方後円墳は舟塚山古墳のみであり、玉里古墳群をはじめとする周辺地域では円墳が築造されたことから、前方後円墳の造墓活動に規制が働いていたとの指摘もあります。
5世紀末~6世紀初頭…舟塚山古墳の大勢力を頂点する政治体制が衰退したのか、前方後円墳が造営されるようになりました。玉里古墳群では、権現山古墳(89.5m)、周辺地域でも、石岡市府中愛宕山古墳(96.6m)、大井戸古墳(復原86m)、かすみがうら市富士見塚古墳(80m)、行方市三昧塚古墳(86m)が築造されるようになります。この5基は、ほぼ同時期、同規模であることからも小地域の領域を掌握した首長が存在していた結果と見ることもできます。埋葬施設は、筑波山で産出される通称雲母片岩(うんもへんがん)の箱式石棺を採用する古墳が多く、高浜入りという同じ文化圏を有しながら、水運を掌握するなどして首長自らの地位を確立したものと思われます。
6世紀前半~後半…玉里古墳群では二重の箱式石棺が特徴的な舟塚古墳(72m)が後に続きます。6条7段の円筒埴輪や多種多様な形象埴輪が造出部に立ち並んでいました。舟塚古墳を契機に玉里古墳群には、6世紀後半に至る60年間に首長墓と考えられる山田峰古墳、滝台古墳、桃山古墳、閑居台古墳といった5基の前方後円墳が築造されるようになります。
6世紀末~7世紀初頭…玉里古墳群では首長墓がなくなり、高浜入りの前方後円墳は、玉里古墳群の北側に所在する木舟塚古墳、西側の富士峰古墳、高浜入り南岸のかすみがうら市風返稲荷山古墳など玉里古墳群の周辺に築造されるようになります。
7世紀前半…前方後円墳から円墳になる終末期には、横穴式石室を採用した岡岩屋古墳(50m)が築造されます。その後、程なくして古墳造営は終焉を迎えます。
100年、三世代に至る首長系譜を辿(たど)ると、玉里古墳群には三世代でありながら、その倍以上の大型前方後円墳が築造されています。古墳の築造状況から政治的動向を探る研究が進められています。
(玉里史料館 本田信之)

○語句解説
帆立貝形古墳:平面形が帆立貝形に似ていることから名付けられた。
方形周溝墓:方形の低い墳丘の周りに溝をめぐらせた墓。

問い合わせ:生涯学習センターコスモス
【電話】0299-26-9111

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