文字サイズ
自治体の皆さまへ

小美玉市の歴史を知ろう68

13/16

茨城県小美玉市

■平氏の台頭と平安時代のおみたまくらし
◇平将門(たいらのまさかど)の乱
10世紀中頃、親族の間での抗争に勝利した平将門は、関東一円にその勢力を拡大し、ついには、新皇と自称し、独立した勢力を確立しました。当然ながら、朝廷への反乱とみなされ、将門討伐に応じた平貞盛(たいらのさだもり)、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって平定されてしまいます。
上玉里の大宮神社は、10世紀中頃、平貞盛が鹿島神宮の分霊を迎えたとの伝承が残されています。

◇常陸大掾(ひたちだいじょう)氏の台頭
将門討伐の論功行賞(ろんこうこうしょう)により所領を引き継いだ平貞盛は、弟繁盛(しげもり)の子、維幹(これもと)を養子に迎え、常陸南部の所領を譲りました。維幹は、筑波郡多気(たき)を本拠に常陸大掾氏として強大な勢力を誇りました。常陸大掾氏はその名が示すように常陸国府周辺を基盤とした在庁官人でもありました。その後の子孫は、常陸の各所に土着して常陸平氏と呼ばれるようになります。
維幹の嫡(ちゃくりゅう)流である為幹(ためもと)は、財力と権力を笠に着て粗暴な振る舞いが多かったといいます。寛仁4年(1020年)、紫式部の弟であった常陸介(ひたちのすけ)藤原惟通(ふじわらののぶみち)は常陸国府で亡くなってしまいましたが、母と妻子は、都に帰らずに常陸国に留まりました。その年の閏(うるう)12月に平為幹は、惟通の妻子を奪い取る事件を起こしました。藤原惟通の母の訴えにより、為幹は、身柄を都に移され、拘束されましたが、のちの右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)の取り成しもあり、翌年には罪を許されています。

◇常陸国衙(ひたちこくが)
律令国家の象徴でもある国衙は、常陸国では、現在の石岡市に置かれました。都からは国司(こくし)(常陸介(ひたちのすけ))が派遣され、官人や役人などが政務や儀式を行う施設がありました。
11世紀になると、国衙での政治の実務は事実上、在庁官人である常陸大掾氏が担うようになり、国司(常陸介)は在庁官人の力なしに国内統治を果たすことはできなくなりました。
常陸国衙跡の調査では、10世紀後半以降の政務が行われる施設が確認されています。一方で儀式や儀礼の空間は喪失して、規模が大幅に縮小されていました。

◇平安時代後半のおみたまくらし
下玉里にある平内(たいらうち)遺跡は、霞ケ浦を臨む台地上に所在しています。この遺跡で検出された土坑では平安時代後半の土師質土器(坏・椀・甕(かめ)など)や支脚が出土しており、土坑の底面には、焼け込んだ痕がありました。土器の焼成遺構もしくは、屋外に設けられた炉である可能性があります。平安時代後期の住居は、簡素な掘立柱建物であったとされており、大きな掘り込みを伴わない平地建物は、その痕跡は残ることは少ないと考えられています。
都での優美な貴族文化と一線を画する庶民の生活の一端を垣間みることができます。

(玉里史料館 本田信之)

○語句解説
論功行賞:功績の有無や大きさの程度を調べ、それに応じてふさわしい賞を与えること。
嫡流:家督を受け伝えていく家柄常陸介常陸国の国司の地方官の一つ。常陸国は、親王任国であったため、国司の実務上の最高位。
国司:地方を支配する行政官として朝廷から派遣された役人のこと。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官。
支脚:カマドに据(す)える煮炊き用の甕を下から支える道具のこと。

問い合わせ:生涯学習センターコスモス
【電話】0299-26-9111

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU