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ふるさと歴史だより

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茨城県常陸大宮市

◆常陸大宮市ができるまで-明治期の町村合併-
平成16年(2004)10月16日、大宮町・山方町・美和村・緒川村・御前山村の5町村が合併し、常陸大宮市が誕生しました。那珂川・久慈川という2大河川が市内を流れ、県内2位という広大な面積を有する本市ですが、江戸時代には80以上の村々が存在し、異なる生活圏や交通体系の中で人びとの生活が営まれてきました。本市が形成されるまで多くの町村合併が行われてきましたが、今回は地方自治の基礎が確立された明治期の合併について紹介します。

◇明治前期の地方自治
近代的な地方自治の第一歩として実施されたのが、明治5年(1872)に施行された戸籍法(こせきほう)と大区小区制(だいくしょうくせい)です。戸籍法の制定によって、戸籍作成の規則が全国的に統一されたほか、新たな行政区画である戸籍区を定め、戸籍事務を管理する役職として戸長(こちょう)や副戸長(ふくこちょう)が設置されました。こうして作成された戸籍は「壬申戸籍(じんしんこせき)」と呼ばれ、現在使用される戸籍の基礎となりました。また、茨城県では戸籍区を21の大区と130の小区に編成して戸籍事務を行いましたが、戸長はやがて行政事務全般を取り扱うようになるなど、大区小区制は新たな自治組織として機能しました。しかし、これは従来の自治組織である村を無視した制度であることから、実務面などに多くの課題が見られました。
その後、明治11年(1878)になると郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう)が制定され、大区小区制の撤廃にあわせて郡役所が設置されたほか、村が行政組織としての機能を回復し、各村に戸長が1人置かれるようになりました。ただし、村の規模によっては数か村に1人の戸長を置く「連合村(れんごうそん)」の形態をとる場所もありました。明治17年の常陸大宮市域では、全ての村が連合村の形態をとっていたことが確認されています(表参照)。

・表 常陸大宮市域の連合村(明治17年)

◇明治の町村合併
明治22年(1889)、市制(しせい)・町村制(ちょうそんせい)の施行に伴い、全国的に町村合併が進められました。合併に際しては、行政の効率化や村の均一化を図るため、1町村辺り300~500戸の基準が定められており、町村数は全体の5分の1近くまで減少しました。常陸大宮市域でも町村合併の動きが進められ、明治17年(1884)時点で69あった村は20か村となりました。合併では従来の連合村が基準になったと考えられますが、大宮村は単独で町制を敷いて大宮町として発足したほか、三美村や那賀村のように、地勢上の理由などから連合村以外の村と合併した事例も存在します。合併によって、江戸時代以来続いていた共同体としての村落はその役目を終えましたが、旧村名は地名として残り、現在にその名残を伝えています。

10月12日(土)から常陸大宮市文書館で企画展「常陸大宮市ができるまで-公文書からひも解く町村合併-」を開催いたします。合併20周年を記念して、市域における過去の町村合併について紹介する企画展となっております。ぜひお越し下さい

問い合わせ:文書館
【電話】52-0571

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