■見川城~防御特化型の城~
住所:水戸市見川3丁目
見川城は、江戸氏の重臣・春秋石見守(はるあきいわみのかみ)の城です。
最初に江戸氏と春秋氏について解説しましょう。この連載でたびたび登場する江戸氏は、南北朝時代後半から戦国時代にかけて、中世の水戸地方を支配した武士団です。居城である水戸城を中心に、一時は現在の水戸市・大洗町・ひたちなか市・茨城町の大部分と、笠間市・那珂市・小美玉市・鉾田市の一部を所領とし、中世の常陸でも屈指の勢力を有しました。
広大な江戸氏の領域には、たくさんの城が存在し、その数は確認できるだけで84もあります。これらの城の多くには江戸氏の家臣が配置されました。そうした家臣の中でも重用されたのが、春秋氏一族です。春秋氏は、もとは旧鹿島郡春秋村(現在の鹿嶋市和(かず))を治める土豪でした。江戸氏が水戸地域に進出する頃には江戸氏に仕え、重臣となったようです。河和田城に春秋尾張守(おわりのかみ)、長者山城に春秋駿河守(するがのかみ)、田谷に春秋兵庫助(ひょうごのすけ)、そして見川城に春秋石見守が城主となるなど、一族は江戸領内の中核的な城を任されました。
さて、数ある春秋氏の城の中でも、最も水戸城に近いのが見川城です。両城の直線距離はわずか3.7km。偕楽園公園沿いの台地上にあり、江戸領内の主要河川だった桜川を押さえる形で立地しています。
規模は南北約180m、東西約210m。城としては小さな部類です。ところが中に入ると、高さ約3mの土塁が本丸を取り囲み、南側には二重の堀がめぐるなど、大きな遺構に驚かされます。本丸への入口(虎口(こぐち))も細く折れ曲がっていて、大人数で攻め入ることは困難です。こうした技巧を凝らした構造(縄張(なわばり))は戦国時代の城の特徴で、見川城は居住性を低くして防御機能の強化に特化した、軍事的性格の強い城だと理解されています。
見川城は敵地に接しているわけでもないのに、なぜ防御特化型の城となったのでしょうか。天正18(1590)年、水戸城は佐竹氏の攻撃で落城、江戸氏は滅亡しますが、見川城も佐竹氏の脅威に備え改変したという見方もあります。こうして、戦争に備えた見川城でしたが、同年の佐竹氏の攻撃により、見川城ほか春秋氏が治めていた城は次々と落城し、一族の多くが滅亡しました。なお、春秋兵庫助のみは江戸重通(しげみち)の子とともに、徳川家康の次男で初代福井藩主となった松平(結城)秀康の家臣となり、一族の命脈(めいみゃく)を保ちました。
廃城した城は、その後の改変で遺構が失われことが多いのですが、見川城の遺構は市内でもトップクラスで保存状態が良く、戦国時代末期の縄張を今にとどめる貴重な城といえます。
歴史文化財課 関口慶久
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