■長者山城(ちょうじゃやまじょう)~境目(さかいめ)の城~
住所:水戸市渡里町
城は目的に応じてさまざまな場所に築かれます。水戸城のように領国の中心に築かれたり、見川城(みがわじょう)のように水戸城に付き添うように築かれたり、河和田城(かわわだじょう)のように水陸交通の中継地に築かれたり。なかでも多いのが、領国の国境に築かれる城です。こうした城は「境目の城」と呼ばれ、防御や攻撃の要として重要な役割を担っていました。
今回紹介する長者山城は、市内に数ある境目の城の代表例です。城主は江戸氏家臣の春秋駿河守(はるあきするがのかみ)と伝えられています。那珂川・田野川に面する台地上の先端に築かれており、那珂川方面から侵攻する敵(佐竹氏)を想定した城であることは明らかです。
那珂川対岸の台地上には、田谷白石台城(たやしらいしだいじょう)(田谷町、其の四参照)が築かれています。つまり那珂川を国境として、北東側が佐竹領、南西側が江戸領となっており、佐竹氏の田谷白石台城と江戸氏の長者山城が、それぞれ境目の城として牽制(けんせい)しあっていたと考えられるのです。
では、長者山城の内部を見てみましょう。城の中心(本丸)は曲輪(くるわ)Iです(上図参照(本紙参照))。南北約100m、東西約80mの長方形をしていて、周囲を二重の土塁と堀が囲っています。この曲輪単独でも城として通用しますが、さらに南側に曲輪IIとIII、西側にIVとVが付属し、防御力を強化しています。いかにも戦国時代らしい縄張(なわばり)といえます。
長者山城で合戦があった記録はありませんが、天正18(1590)年、佐竹氏が江戸氏を滅ぼしたことによって長者山城も廃城となりました。令和元年に実施した発掘調査では、ちょうど佐竹氏の支配下になった頃、堀が短期間のうちに完全に埋め戻されていることが分かりました。これは防御の要である堀を埋めることで、城を壊したと見なし、領主の交代を内外に見せしめる「城破(しろわ)り」の痕跡と考えられています。
長者山城周辺は、奈良・平安時代には那賀郡(なかぐん)の郡役所(台渡里官衙遺跡群(だいわたりかんがいせきぐん))が建てられ、水戸の中心地として栄えるなど、古代・中世を通じて重要な地域でした。こうした長者山地区の歴史はやがて、この地に長者がいたという「一盛長者伝説(いちもりちょうじゃでんせつ)」に形を変え、現在に語り継がれています。
歴史文化財課 関口慶久
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