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力士とは力の士(さむらい)である 特集 角聖と呼ばれた男(1)

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

常陸山谷右衛門生誕150年

■「技量」だけでなく、「品格」も重んじた横綱
明治維新に伴う近代化の中、衰退の一途を辿っていた大相撲の人気を回復させ、相撲を国技と呼ばれるまでに押し上げた力士・常陸山。
その相撲は、相手に十分に力を出させてからねじ伏せるという、まさに「横綱相撲」の手本であった。
技量だけではなく、品格も求め続けたその精神は、旧水戸藩士の家に生まれたことによる武士道の精神からくるものだった。
日露戦争後、排日運動が高まるアメリカにおいて、ルーズベルト大統領に面会し、ホワイトハウスで行った土俵入り―。
常陸山の功績から始まった国技館の建設計画―。
一人の力士としての枠を超え、相撲界、そして日本を背負って生きた男の物語。

■力や技よりも心を鍛える
Taniemon Hitachiyama
常陸山谷右衛門
第19代横綱

明治36年5月場所9日目。常陸山と梅ヶ谷の両大関の取組は、ともに土つかずの全勝対決となった。
満員の会場では、大歓声が沸き起こり、興奮と熱気で包まれている。
両者向き合い、手をついて勢いよく立ち上がる。いい形になったのは梅ヶ谷。素早く常陸山の両脇に自分の両腕を差し入れて寄り立てる。一方、怪力を誇る常陸山は、梅ヶ谷の両腕を外側から抱え込んで動きを封じる。それでも梅ヶ谷は、攻撃の手を緩めず寄り進む。土俵際まで詰め寄られた常陸山は、体を左右に振って右に回り込み突き放す。一瞬、梅ヶ谷の体が浮いて離れたところに突っ張りを繰り出し、梅ヶ谷が体勢を立て直す前に攻撃の手を緩めず突き倒した―。
この場所後、常陸山の横綱昇進が決まった。
しかし、常陸山は実力が互角の梅ヶ谷も横綱にふさわしいと相撲協会に願い出たことで、同時昇進を果たすこととなった。
明治の大相撲黄金期「梅常陸時代」の始まりである。

■天性の能力に加えて努力を重ねる
常陸山は、明治7年1月19日に旧水戸藩士・市毛高成の長男として生まれた。
水戸中学(現在の県立水戸一高)に進学するも運送業をしていた父の経営が悪化し中退。
16歳の時、東京専門学校(現在の早稲田大学)進学を目指し、同校で剣道師範をしていた叔父を頼って上京する。
叔父は常陸山に竹刀で稽古をつけたところ、竹刀が折れるほどの腕力に驚き、力試しに巨石を持ち上げさせてみると、20貫(75kg)、40貫(150kg)、60貫(225kg)の石を次々と担ぎ上げた。
これに驚いた叔父は、力士になることを勧め、明治24年に東京相撲に所属している常陸山虎吉に弟子入りした。
常陸山は一日も早く幕内力士になりたいと懸命に稽古に取組み、明治25年5月場所で序の口16枚目になると、その後も序二段、三段目、幕下へと順調に昇進した。
本格的な力士として歩みはじめた明治28年、これまで所属していた東京相撲を突如離脱、名古屋相撲、さらに大阪相撲へと移る。地方相撲で活躍していた常陸山だったが、東京相撲への復帰を望む周囲の声を聴き入れ、明治30年に復帰する。

■相撲に対する哲学と信条が人々を魅了する
東京相撲復帰後、圧倒的な強さで好成績を残し、明治34年5月場所で大関に昇進する。
常陸山の活躍により、会場には多くの客が詰めかけるようになり、華族や将校、外国人などの姿も目立つなど、大相撲人気は一気に上昇した。
常陸山の人気の理由は言うまでもなく抜群の強さにあった。しかしそれだけではなく、常陸山ならではの相撲に対する姿勢があった。それは「勝負は時の運」という相撲哲学と「相手の押しをかわさない」という信条である。
常陸山は、勝ちにこだわることはしなかった。「勝負は時の運で、どうなるか分かるものではない。勝つと思った相撲に負け、困難だと思った取組にあっさり勝つこともある。」と言い、どれだけ見応えのある相撲を取るかということにこだわった。
勝ちを求めるあまり、つまらない相撲をとっては観客は興ざめしてしまう。相手の押しをかわすようなことはせずにしっかりと受け止め、攻められても余裕を持ってしのぎ、圧倒することを美徳としていた。
この正々堂々と挑む姿に観客は魅了されたのである。

■海を渡った伝統文化が親善を深める
明治40年8月、常陸山は3人の弟子を連れてアメリカに渡り、セオドア・ルーズベルト大統領に面会。ホワイトハウスで土俵入りを披露した。力士がアメリカ大統領と会うのは初めてのことである。
集まった観客は、想像していた日本人とは全く異なる力士の大きな体格に目を見張り、力士同士がぶつかる音の大きさ、迫力のある取組に興奮し、その一挙一動に注目した。
この出来事は大きな話題となり、ルーズベルト大統領が相撲を観覧したというニュースがアメリカ中に広まった。
しかしなぜ、横綱とはいえ一力士に過ぎない常陸山が大統領に会うことができたのだろうか。
当時アメリカでは、日露戦争後に力をつけてきた日本に対する警戒心から、日本移民への排斥運動が激しくなり、日本とアメリカの関係が著しく悪化していた。そのような中、かねてから貴族院議長の近衛篤麿(このえあつまろ)から外遊を勧められていた常陸山は、両国の親善に貢献するという期待を受けて海を渡ったのである。

問合せ:歴史文化財課
【電話】306-8132

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