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かさまのれきし第75回

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茨城県笠間市

■宍戸安芸守朝重開山の教住寺
笠間市住吉にある教住寺は、宍戸朝重(ししどともしげ)(朝里(ともさと)・朝家(あさいえ))が開山で、住吉山松林院と号する時宗の名刹(めいさつ)です。時宗の開祖は捨聖(すてひじり)と崇(あが)められた一遍上人で、本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))です。貞和(じょうわ)二年(一三四六)、朝重が天台宗の廃寺に新たに時宗の他阿自空(たあじくう)を招いて住吉道場を開き、それが教住寺になりました。
宍戸朝重は、鎌倉幕府滅亡後、建武の新政・南北朝の動乱期に足利尊氏に従い、各地を転戦し戦功を挙げました。『太平記』に「宍戸安芸守(あきのかみ)ハ物馴タル剛ノ者」と評され、関東にその名が轟(とどろ)いていました。各地を転戦しながら、小鶴荘を地頭請所(うけしょ)として支配し、湯崎の字館内(あざかんない)に湯崎城を築いています。
戦乱の時代を生きた朝重は、他阿自空と「南無阿弥陀仏」を通して、当地方の平和と救済を祈願しました。当地方は、交通の要衝で東南に向えば鹿島へ、途中の柏井地区には親鸞伝説が残っています。西に行けば垂柳(しだれやなぎ)(小原)・笠間・下野(しもつけ)国(栃木県)に通じています。教住寺の縁日は、参詣客で溢(あふ)れ、門前に市が立つと言われるほどの賑(にぎ)わいだったと伝えられています。
繁栄を極めていた教住寺も、戦国・安土桃山時代になると、宍戸氏が衰退し、檀那(だんな)を失い困窮に陥りました。江戸時代になると、北出羽地方(秋田)から秋田実季(さねすえ)が五万石で宍戸に入封しました。元和二年(一六一六)、教住寺は火災により堂宇を失いましたが、秋田氏の支援により復興することができました。正保二年(一六四五)、秋田氏が三春(福島県)に転封となり、宍戸地方は幕府領となりました。慶安元年(一六四八)、幕府より朱印地七石が授けられ、さらに寛文四年(一六六四)には水戸藩主徳川光圀から鐘楼堂の寄進を受けました。天和(てんな)二年(一六八二)、光圀の弟松平頼雄(よりかつ)が宍戸藩主となり、教住寺を支援しました。
明治になって、神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により存亡の危機に瀕(ひん)しましたが、住職・檀信徒の尽力で危機を脱することができました。ところが、明治三十九年(一九〇六)五月に本堂・庫裡(くり)・熊野社などを焼失してしまいました。同年八月に仮本堂兼庫裡を急ぎ再建して、かろうじて風雨を凌(しの)ぎました。さらに大正中期にも暴風により山門が倒壊、昭和十四年(一九三九)には鐘楼の焼失と苦難が続きました。
昭和四十七年(一九七二)に現在の本堂が再建され、その後、客殿・書院・観音堂が復興し、庭園・墓地も整備され、かつての名刹の風貌を取り戻しました。
教住寺の本尊は銅造阿弥陀三尊像(善光寺式、籾(もみ)含みの阿弥陀如来)で、笠間市の文化財に指定されています。宍戸の新善光寺の銅像阿弥陀三尊像(市指定文化財)も所蔵しています。また、閻魔(えんま)大王・十王像・四天王像・観音像・琵琶を持つ弁財天像が安置されています。『一遍上人絵詞伝縁起』・『播州問答集』・『一遍上人語録』・『六條縁起』・『浄業和讃』などの貴重な書籍も保存しています。連歌の始祖といわれる菅原道真の画像もあり、その前で歌会が開かれていました。住吉共有墓地には、宍戸朝重供養碑と三基の五輪石塔が立っています。
境内には、ケヤキ・マツ・シュラ・コウヤマキなどの大樹、ウメ・サクラ・アシビ・ツツジ・アジサイ・ヒガンバナ、モミジなど四季折々の花がきれいに咲いています。
現住職は、一遍上人の「踊念仏」を復興されました。修貮会(しゅにえ)・開山忌・六時礼讃などの行事を厳修しています。茨城県の時宗寺院の中でも特異な存在です。文化財を保護し、地方文化の発信地となっています。
市史研究員 南秀利(みなみひでとし)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

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