■第76回土浦藩主土屋陳直「常州岩間紀行」について
岩間地区の大半は江戸時代、土浦藩主土屋氏に統治されました。その初代藩主は土屋数直(かずなお)(一六〇八~一六七九)、三代目は「常州岩間紀行」の作者陳直(のぶなお)(一六九六~一七三四)です。
天正三年(一五七五)、織田・徳川勢と武田勝頼勢が戦った長篠の戦いで武田勢は大敗しました。その後、武田氏は有力武将が離反し、遂に主従とも自害しました。このとき土屋昌恒(まさつね)(数直の祖父)は二十七歳、一男一女を妻に託して力戦奮闘して勝頼夫妻の自刃の時を稼ぎ、自らも自刃しました。昌恒の妻は二児を守り、男子平四郎(五歳)を清見寺(せいけんじ)(静岡県清水市)に託しました。天正十七年(一五八九)、徳川家康が鷹狩りの帰途に同寺で小憩(しょうけい)した時、茶を運んだのが平四郎で、その立居振舞が尋常でないのを見て、その素性(すじょう)を住持(じゅうじ)に尋ねました。武田の臣土屋の孤児であるとわかり、強(し)いてもらい受けました。のちに、平四郎は二代将軍徳川秀忠に仕え、秀忠の諱(いみな)一字を賜り「忠直」と改めました。のち上総(かずさ)国久留里(千葉県君津市)城主に封(ほう)ぜられました。忠直には利直・数直・之直(ゆきなお)の三子があり、利直が久留里を継ぎ、数直・之直は旗本になり、次子数直が土浦藩土屋氏の祖となります。
享保十五年(一七三〇)、藩主陳直は岩間陣屋(じんや)を訪れました(四月二十八日~五月三日)。その時の遊行記が「常州岩間紀行」です。往路は笠間街道、帰路は瀬戸井街道、途中の風物の描写に歌を折り込んでいます。岩間には三日間の逗留(とうりゅう)で宿泊は陣屋でした。府中(石岡)にて小休止、立ち並ぶ市や国分寺を遥かに「法(のり)の道あまねかれとて国々にわかち置きけん古寺の場」と詠み宿舎の陣屋へ向かいました。岩間陣屋は下村(下郷)の南端にあり、府中・笠間街道に面し、八幡(はちまん)神社(六所神社)の北側です。敷地面積は一町歩に及び、街道から入ると高札があり、長屋門・役所・入母屋造瓦葺の母屋・土蔵等があります。中庭には築山が築かれ、奥の木立には祠(ほこら)、周囲は竹垣で囲まれ、参道側には裏門があり、敷地内には二反歩程の菜園もありました。北条(ほうじょう)・小田(つくば市北条・小田)の陣屋と比べると規模が大きく、「岩間役所」ともよばれ、農民の訴状や願書を受け付けていました。
翌二十九日は快晴、努めて徒歩で青い山々を遠望し、曲がりくねった坂を登って愛宕山へ向かいました。江戸時代には愛宕神社は朱印地三石が与えられ、土屋氏の祈願所でもありました。陳直は奥方の忌中(きちゅう)なので神社への直接の参詣を遠慮しています。その後漸(ようや)く難台山に到着。眼下に愛宕山、東南に水戸・鹿島が遠くに見え、笠間の城・宍戸の邑(むら)は手に取るように見え、北方を遠望すると陸奥の山々、西には黒髪山、中禅寺の山が遥かに見えます。ここに暫(しばら)く足を休め、下ると谷川があり「はるばると山路越へ来て誰もみなつかれてむすぶ谷の下水」、また一面に咲く卯の花を見て「時ならぬ雪かと見るも涼しくてわくる山路の谷の卯の花」と詠じました。下山して滝入り不動を訪れ、祖父数直がここに立ち、不動尊を安置するに絶好の場所と称賛して、石仏を彫り滝の元に安置したとあります。現在この石仏は所在不明です。この後宿に戻り、翌日は八郷を通り北条に宿し、翌々日土浦の城に帰りました。
市史研究員 萩野谷洋子(はぎのやようこ)
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