文字サイズ
自治体の皆さまへ

かさまのれきし

23/32

茨城県笠間市

■第77回寺崎集落の広業堂(こうぎょうどう)東にある「殿様の墓」
寺崎広業の手紙(嶌田俊一氏蔵)「殿様の墓」と呼ばれる墓碑問合せ:生笠間高等学校東側の道を北へ向かい、国道五号を越えて寺崎集落内の道を左に進み、左前方に見える深緑色の地区消防分団の建物方向へ折れた先に広業堂があります。その東側は同集落の共同墓地です。今回は墓地内の「殿様の墓」と呼ばれる墓碑に絞って紹介します。
「殿様」とは、今から約四百年前、笠間氏の有力な家臣で同集落の字(あざ)竹下の地に館(やかた)を構えたと伝えられる寺崎氏です。天正(てんしょう)十八年(一五九)笠間城主笠間綱家(つないえ)が豊臣秀吉の小田原討伐(とうばつ)に絡(から)み本家筋の宇都宮国綱に攻められ、笠間氏は滅亡しました。寺崎館の主(あるじ)寺崎信元(出羽守(でわのかみ))は、新たに水戸城主佐竹氏に仕(つか)えました。関ヶ原合戦後の慶長七年(一六二)佐竹義宣(さたけよしのぶ)は羽後(うご)久保田(秋田市)へ国替えとなり、寺崎氏も秋田へ移っていきました。
中国・唐(とう)の時代の都長安(ちょうあん)に倣(なら)った平安京の街造(まちづく)り(都城制(とじょうせい))で、天皇の住まいを中心とする大内裏(だいだいり)が南面して北端(ほくたん)中央に造営されたように、ほぼ四角に区画された同墓地の北(きた)の端(はし)中央に寺崎氏の墓碑が墓地最上位の地に据(す)えられ、安見・滝田・木内諸家の墓碑が東西両側に並びます。「殿様」の墓碑の銘(めい)は江戸時代の大名の墓碑に見られない珍しいものです。墓碑は二基あり、当時の館主(やかたのあるじ)と推定される墓碑は高さ一四センチメートル、最大幅四センチメートルで、頭部左部分が損壊しています。銘は
「天正六戊寅年 捐舘 光聚院爐香正金居士台霊 三月 寺崎出羽守信元」
と刻まれています。天正六年(一五七八)、戊寅(つちのえとら)は同年の干支(えと)で、墓碑の主の没年になります。「捐館(えんかん)」(捐舘)とは「館(やかた)を捐(す)てて世を去る」、則ち「高貴(こうき)な人の死」を意味します。「台霊(だいれい)」は下文字(したもじ)と呼ばれる言葉の一つで生前の地位を表し、大名や将軍に用います。「光聚院爐香正金居士(こうじゅいんろこうしょうきんこじ)」が埋葬された人物の法名(ほうみょう)(戒名(かいみょう))です。江戸時代の大名の法名は「院殿(いんでん)」や「大居士(だいこじ)」を用いますが、捐館や台霊の文字は見かけません。墓碑の様式から、寺崎信元が父親の法名光聚院爐香正金居士の墓碑を建立したと考えられます。信元の生没年は未確認ですが、文禄(ぶんろく)五年(慶長元年・一五九六)四月、京都・花園の臨済宗妙心寺派の本山妙心寺の前住持南化玄興(さきのじゅうじなんかげんこう)(一五三八~一六四)より「安名」の道号(どうごう)が信元に授けられています。
もう一方の墓碑は高さ六二センチメートルで、頭部と右肩部が損壊しています。法名「□□室妙空大姉淑霊(みょうくうだいししゅくれい)」、没年が「天正十三乙酉(きのととり)年八月二十六日」とあります。□□は墓碑が損壊しています。「淑霊(しゅくれい)」は「貴人の婦人」の意ですので、「光聚院」の夫人と考えられます。
寺崎の地に安見・滝田・横倉・木内・田口・藤井の六姓の家臣が主君である寺崎氏歴代の墓を守るため土着したと伝えられます。
岡倉天心の考えに共鳴して日本美術院の創設に参加し、東京美術学校(現東京藝術大学)教授・帝室技芸員を務めた寺崎広業は秋田へ移った寺崎氏の子孫です。明治四十五年(一九一二)一月、木村信義(のぶよし)・武山(ぶざん)父子そして寺崎の人々の協力により先祖の墓碑と対面し大変感激した様子は、寺崎の人々への広業のお礼の手紙から察することができます。
市史研究員 矢口圭二(やぐちけいじ)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU