■昭和前期に開通した宍戸と友部を結ぶ道
「道路ふれあい月間」に因(ちな)んで、今回はJR水戸線南側の宍戸駅前通りと友部駅前通りを東西に結ぶ、二キロメートルの道路新設や道路沿いの変遷を紹介します。
昭和十二年(一九三七)一月、宍戸尋常高等小学校(現宍戸小学校)前に宍戸町役場庁舎(現歴史民俗資料館)が落成し、役場業務が開始されました。当時、友部の人々が役場へ出向くには、水戸坂から大田町を経て旧陣屋を通る道と、大沢から橋爪(はしづめ)を経た平町(たいらまち)の川沿いの道が主要な道路でした。町当局は常磐線の踏切を渡り、最短距離で往来できれば町民の便利さが増し町全体が発展するという構想の下(もと)、新たな道路建設を計画しました。
昭和十四年に踏切以西を第一期工事区間として、同庁舎から、やや北方の宍戸駅前通りの平町字殿町(あざとのまち)を西の起点としました。同地点から宍戸陣屋跡の南側を東方へ進むと、橋爪字古舘(ふるだて)(旧陣屋三区)です。同地は周りより少し高く、中世には館(やかた)がありました。さらに東へ進み、溜池(ためいけ)北側を高台へ向けて坂道を造成し、幅員六メートルの砂利道路を完成させました。この坂道は、後に童謡詩人野口雨情(のぐちうじょう)の生涯をもとに創作した映画「雨情」のロケ地に選ばれ、雨情役の名優森繁久彌(もりしげひさや)が坂道を歩いて下るシーンが撮影されました。
坂道を上り詰めた所に「八幡下(はちまんした)」の地名表示板があります。八幡下は国土地理院発行の地図にある地名で、常磐線西側の高台になります。現在、八幡神社は橋爪字花坂の台地南側に鎮座しています。明治中頃まで八幡台(まちまんだい)西方の字八幡山(はちまんやま)に祀(まつ)られていましたが、常磐線の開通で線路の西側に移され、大正期の同線複線化で境内の大半を失いました。氏子(うじこ)や関係者が同社の存続を考え、用地寄付者を頼り、現在地に社殿を新築し遷宮(せんぐう)しました。
踏切が中間地点で、残りの友部駅前通りまでの第二期工事が順調に進み、昭和十五年にこの計画が完了しました。
踏切名は「警察前踏切」です。戦後、自治体警察が設置されましたが、間もなく廃止されました。昭和二十六年十月に笠間地区警察署となり、宍戸町に警部補派出所が置かれることになりました。派出所は、踏切東側の角地(かどち)(現友部中学校駐車場)にありました。同四十二年三月、友部駅前に笠間警察署管轄の派出所が新設され同地に移転しました。
道路南側の広い草地(現中央四丁目)には、昭和二十八年五月、宍戸中学校(現友部中学校)が新築され筑波海軍航空隊跡の校舎から移ってきました。
現在の笠間市役所の辺りは笠間営林署の所有地で、大田町字当(とう)ノ越(こし)地内(現中央三丁目)に、宍戸・北川根・大原の三町村合併及び鯉淵(こいぶち)村の一部編入後の友部町役場庁舎が昭和三十三年六月に落成しました。その後、中央公民館(現友部公民館)・友部消防署庁舎が竣工しました。また、友部駅前周辺の区画整理事業が進み、区画内の道路と役場前の道路が接続しました。桐畑(きりばたけ)が点在する平坦な土地に道路が開かれると道路沿いに住宅や商店が建ち始め、映画館も開館しました。駅前通りの東の起点周辺は、平町地内でした。東方の柿橋(かきはし)へ通じる道路とも繋(つな)がり、信号機に「平町交差点」と表示されました。
新設された道路は、平成十八年(二〇〇六)三月から笠間市の市道(友)一級十三号線になりました。八十余年の間に舗装・拡幅され、歩道も設けられて便利で安全な道路に変わりました。生活道路・通学路であり、緊急自動車が出動する大切な道路です。なお、警察前踏切以東は「まごころ通り」と呼ばれてきました。
市史研究員 幾浦忠男(いくうらただお)
問合せ:生涯学習課
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