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わがまち再発見 対馬発掘調査日誌 ~郷土の歴史に思いをはせて~ 第23回

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長崎県対馬市

■対州焼の中心をなした「志賀窯(しかかま)跡」

志賀窯(厳原町久田道)は江戸時代中期から明治まで続いた窯跡で、志賀鼻(しかのはな)という岬状地形の根元にあったと推定されています。現在道路が通っていることから一部すでに破壊を受けた可能性がありますが、300点を超える陶磁器が発見されました。
朝鮮外交を一手に担った対馬藩は1644年から釡山倭館内で釡山窯(ふざんよう)を開き、大名を中心に茶器の注文を受けて製作していました。その後、釡山窯廃業(1718年ごろ)の40年ほど前から対馬で陶磁器を作る技術が継承されるようになります。文献上では小浦皿山・久田・志賀・立亀・阿須・小浦といった窯の存在が確認されており、窯の痕跡が残っているのは志賀と立亀のみです。対州窯と呼ばれるこれら窯群の中で志賀窯は最も長い期間操業し、中心をなすものでした。陶器には象嵌(ぞうがん)(立鶴(たちづる)・雲鶴(うんかく)・菊花(きつか)・暦手(こよみで))・刷毛目(はけめ)・蕎麦釉(そばゆう)などの文様が施された抹茶碗・ぐい呑・皿・仏飯器(ぶっぱんき)などがあります。磁器には白磁染付(そめつけ)や青磁象嵌の皿・香炉が確認されています。
金石城跡・桟原城跡・今屋敷家老屋敷跡といった茶碗が使用される場所(消費地)からの出土と異なり、窯跡(生産地)からの出土例は少なく、対馬の近世陶磁器の歴史を語る上で重要な意味をもちます。今後、古文書と窯跡現地の調査が進めば、対州窯の実態がより明らかになると考えられます。

今月号をもちまして対馬発掘調査日誌は終了となります。4月からの新コーナーもご期待ください!

問合せ:文化財課
【電話】0920-54-2341

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