広大な面積の対馬では、地域ごとに独自の文化が存在しています。厳原町曲地区には、海を自由に潜りアワビやサザエを採る「曲海女(まがりあま)」と呼ばれる人たちが暮らしていました。かつて海女として生計を立ててきた人や、その家族、その文化に触れ伝えようと活動する人たちにお話を伺いました。
■鎌倉時代に筑前から対馬に来た海士(あま)集団がルーツ
鎌倉時代、筑前鐘ヶ崎(現在の福岡県宗像市)からやってきた海士集団は、対馬を治めていた宗家から対馬各地で漁業を行うことを許され、漁業を行いながら海の上で生活していました。曲地区は、この海士たちが、時代の変化に合わせ、江戸時代の中頃に定住したことでできた地区とされています。
▽宗盛直書下案(曲海士文書)
守護代宗盛直が、対馬全域の海で網を引き、魚を上納するよう伝えている。曲の漁民には、これ以前より島内の浦々で網引きをする権利が与えられていた
曲地区蔵(長崎県歴史研究センター寄託)
■江戸時代に海女が登場
海に潜って漁を行うことに長けた海士たちは、鯨漁などで活躍しますが、男性が漁や藩の命令によって地区を留守にすることが増えると、女性が海に潜り貝を採る漁を担うようになります。曲の海女たちは、対馬全島を船で移動しながら浦々で漁を行いました。海女船と呼ばれる船で移動しながら、1年のほとんどを過ごす曲海女の姿は、70年ほど前まで見られましたが、法律が改正され、自由に漁ができなくなった昭和26年を境に減り始め、現在、曲地区では仕事として潜る「海女」は1人もいません。
▼海女の生活はどのようなものだったのでしょうか。10代から海女として漁を行っていた香月ツルエさん、梅野桂子さん、梅野貞子さん(1列目左から(本紙PDF版5ページ参照))、家族が海女や漁に関わっていた梅野英樹さん、梅野菊次さん、梅野利光さん(2列目左から(本紙PDF版5ページ参照))に当時のお話を伺いました。
○何歳から海女さんとして仕事をしていたんですか?
梅野桂子さん)母も海女だったし、私も子どもの頃からずっと潜ってきて、海女になるのは当たり前のことだと思って、10年ちょっと前、80歳まで海女を続けてきました。
香月ツルエさん)私も、親に連れられて海で練習して、13歳から海女として働きました。結婚後、妊娠中も潜って仕事をしていたので、次男は西側の小茂田で生まれました。
○海女さんのお仕事について教えてください
梅野貞子さん)海女船には、船頭夫婦と海女が3人くらい乗り込んで、対馬の浦々に出かけて漁をします。二十日正月を過ぎると船に乗り込み出発し、曲に帰るのは盆前、盆を過ぎたら正月までは一度帰るだけという生活を繰り返していました。海に入って船に戻るまでを「一入(ひとしお)」というのですが、夏は日に6回、冬は4回繰り返します。船で火を焚いて温まりながら海に潜ります。出かけた浦々では、民家にお風呂を借りに行くのですが、サザエを手土産にすると大変喜ばれました。水揚げの2割を船頭さんに渡す、船での食料や日用品は、均等に負担するなどのルールがありました。
○海女さんとの思い出や、地区の人達にとっての海女さんはどんな存在だったか教えてください
梅野利光さん)香月さんはおばさんですし、祖父母が海女船の船頭でした。幼い頃は、祖父母に連れられて海女船に乗っていました。豊(上対馬町)あたりまで行ったと思います。船の上では海女さんたちの潜っている時間を計ったりして遊んでいました。
梅野英樹さん)母親が海女でした。小学校3年生くらいまで、ふんどし姿に水中眼鏡の海女さんがいる風景があたりまえでした。まさか、対馬の中でも曲だけにしか海女がいないとは思いもしませんでした。
梅野菊次さん)祖母が海女、母はよく海女さんの家に子守りに行っていました。地区にある山住神社には、明治時代に石塔を建てた際に寄進した人の名前が彫ってあって、女性の名前が多くあります。その時代には珍しく、女性が寄進するということは、海女さんが地域の経済を担っていたということだと思います。曲の女の人は働き者が多いんですね。
○自然と対峙する大変なお仕事ですが、振り返っていかがでしたか?
梅野桂子さん)大変なことはあったけれど、大漁だったときは素直にうれしいし、一生海女でいることができて幸せだったと思います。
香月ツルエさん)海の中は自由を感じる場所でした。最近は、陸だと腰が痛かったりするけど、海に潜ると動けるので、仕事を辞めても時折海に潜っていました。今はドクターストップで潜れないけれど、元気になったらまた海に行きたいです。
○若い頃に戻ったら、どんな人生を歩みたいですか?
3人)もちろん海女をやります。
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