【平和への思い尽きることなし】
爆風でガラスの破片が体中に刺さった同級生を粗末な器具でガラス片を取ってあげた実体験の絵。
「痛くない」と言っていたが相当に痛かったはず、と語る荒木さん。(自宅前にて撮影)
※写真は本紙PDF版10ページをご覧ください。
「人生の達人」
荒木 万勝(あらき かずよし)さん(93)
昭和5年、中国満州に生まれ、少年期に母の生家がある雲仙市小浜町へ。終戦後、北串村中学校(小浜町)の教員として就職し、県内の中学校・小学校で教鞭を執る。30歳の頃、大三東小学校赴任中に有明町大三東に居を構える。土黒小学校(国見町)を最後に定年退職。その人柄と人望から、定年退職後も、有明町民生委員児童委員協議会会長や有明町社会福祉協議会副会長、有明町人権教育地区指導員(県指定)など、数多くの公職を歴任。
現在は絵画のほか、アマチュア無線、ギターなどの趣味を楽しみながら、有明町海と川を守る会環境ポスター、有明公民館まつりふれあい美術展の審査員を長年務める。有明町甘木在住。
■大好きな絵との出会い
「絵は苦手だったんですが、小学2年生の頃、どじょうの絵を描いたら先生に褒められて学校に貼られたんです。くりくりっと体を書いて、お目々2つとひれを付けたら出来上がり。簡単に描けたので、そればかり描いていたらどじょうとあだ名をつけられました。」と、笑って語るのは荒木万勝さんです。土黒小学校を最後に教職員を定年退職。美術教師ではありませんでしたが、幼少期から好きだった絵画を独学で学び、教職員美術展などへ出展。県展では7回の入選を果たし、現在も趣味として描き続けています。
絵のほかにもいろいろな趣味を楽しんでいるそうで、「退職したらやりたいと思っていたのがアマチュア無線です。全国の知らない人といろいろなお話をするのがとても楽しいんですよ。自分の視野も広くなります。アマチュア無線は3級を取得して機材も揃えました。凝り性なので庭には高さ15mのアンテナ鉄塔を建てました。このアンテナを使って南極観測隊として同郷から参加した隊員の方の協力で、南極との無線交信にも成功しました。ギターも好きで長年続けています。」と、語ります。
■平和への思い
令和元年、荒木さんは原爆の悲惨さを伝える絵を描き始めます。「長崎への原爆投下時は母の実家である小浜町におり、直接の被爆は免れましたが、後日、遺体探しなどのために長崎市に入りました。当時15歳で放射能の知識もないまま、いろいろな作業を行いました。後で放射線による被ばくを知ることになりましたが、このことは長らく口にしませんでした。この年齢になり、同級生の多くも亡くなりましたが、私はここまで健康に長生きをさせてもらい、申し訳ないような思いもあったんです。戦争や原爆の愚かさ、平和の大切さを忘れないため、90歳の時に思い立ち、3年間で50枚の絵を完成させました。」絵は水彩画で、実際に見た光景、聞いた話、後で見た写真や絵などを想起しながら描いたそうです。
「この絵を多くの人、特に子どもたちに見てもらって平和の大切さを伝えていきたいです。昨年8月には大三東小学校の平和学習で講演をさせていただきました。子どもたちには、平和を願い、思うだけではなく、実際に行動を起こしていかなければならないことを伝えていきたいです。平和学習などの活動に自分の足で行きたいという思いから、朝の体操とウォーキングを90歳から毎日続けています。そして大好きな趣味も楽しんでいきたいですね。」と、平和への思いを力強く語っていただきました。
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