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波佐見の偉人 第7回

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長崎県波佐見町

◆福重 武次郎(ふくしげ ぶじろう)

◇「福幸製陶所」八代目当主として
福重武次郎は明治17年(1884)に中尾郷で生まれました。生家は江戸時代から続く窯元「福幸製陶所(後の幸山陶苑株式会社)」を営んでいました。「福幸製陶所」の八代目当主となった武次郎は昭和元年(1926)に製陶所を中尾郷から井石郷西の原に移しました。

◇波佐見町の誕生/初代町長就任
上波佐見村と下波佐見村のうち、上波佐見村が昭和9年(1934)に上波佐見町となりました。昭和28年(1953)に「町村合併促進法」が公布・施行され、長崎県では指導方針として人口1万5千人内外の町村を揃えたいとしました。当時の下波佐見村の人口は5,584人で合併を要する村でした。上波佐見町と川棚町はほぼ適正規模の人口だったので、両町から下波佐見村への合併勧誘がなされ、村内は上波佐見派と川棚派が対立しましたが、大勢は過去の歴史・職業・人情が似通った上波佐見町との合併に傾きました。この間、武次郎は昭和30年(1955)に第六代・上波佐見町長に就任し、合併問題解決のため奔走、自宅には議論を持ち掛ける町村民が訪れましたが、武次郎はゆっくりと意見を聞き、合併の意義を丁寧に説明しました。
やがて苦難の末に昭和31年(1956)6月1日に上波佐見町と下波佐見村の対等合併が成り、波佐見町が誕生しました。祝賀式上で町長職務執行者の武次郎は、「新町の前途を祝して」と題する式辞を述べ、町民の融和一致と、農業・窯業二産業の並立発展を強調しました。そして、武次郎は波佐見町初代町長に就任し、戦後の町の発展に努めました。

◇中山郷分町問題から終焉
上波佐見町と下波佐見村の合併以後も中山郷は応じず、郷役員は辞意を表明し、町税不納の手段を取り、県も現地事情を調査、知事・町・中山郷の三者会談をもって調整しましたが、解決に至らず、昭和33年(1958)8月23日に佐藤勝也県知事の勧告もあり、武次郎は町長を辞任しました。その後、中山郷のうち、中組・下組は昭和35年(1960)12月1日に川棚町へ編入することになります。
町民から温厚篤実と言われ親しまれた武次郎は昭和43年(1968)秋に勲五等瑞宝章を受章し、昭和47年(1972)に亡くなりました。

◇最初の「波佐見町名誉町民」
昭和45年(1970)12月に「波佐見町名誉町民条例」が制定され、住民の福祉増進、産業振興、文化・芸術の分野で業績があり、広く人々の尊敬を受ける本町在住者や本町に所縁がある人に「波佐見町名誉町民」の称号を贈ってその徳を広く称えることにしました。昭和47年(1972)2月、初代町長・福重武次郎と第ニ代町長・今里久香に名誉町民の称号が初めて贈られました。

◇伝統文化への造詣
武次郎は人形が登場せず、太夫(たゆう)の台詞と三味線の音色で表現する「素浄瑠璃(すじょうるり)」を嗜み、台詞を語る太夫のように謡(うたい)を愛したので床本(ゆかほん)(台本)を置く絢爛豪華な見台(けんだい)が今も福重家に残されています。

◇「西の原」の国登録有形文化財
十代に渡ってやきものを生産してきた製陶所は平成13年(2001)に廃業しましたが、「福重家住宅主屋」、「事務所」、「細工場」、「絵書座」は平成24年(2012)に国登録有形文化財となり、現在、「西の原」の名称で町を代表する新たな観光スポットとして生まれ変わり町内外からの来客者で賑わっています。

学芸員 盛山 隆行

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