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伊那市長のたき火通信

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長野県伊那市

■東駒ヶ岳・開山200年
伊那谷の人々は、古来より南アルプスの駒ヶ岳を「東駒ヶ岳」と呼び、中央アルプスの駒ヶ岳は「西駒ヶ岳」と呼びならわしてきました。全国的に使用されている「甲斐駒ヶ岳」の名前は、明治時代に陸軍陸地測量部が命名しました。以来、「甲斐駒ヶ岳」が一般的になりましたが、その昔は「白崩山」とか「白崩嶽」と呼ばれた時代もありました。
文化13年(1816年)に、信州諏訪郡上古田村(現茅野市上古田)の行者、小尾権三郎が、甲斐横手村から笹ノ平を経て、黒戸尾根を登攀して頂上に立っています。甲斐駒ヶ岳を最初に開山したのが、20才ほどの若き修験者の小尾権三郎だったのです。
現在でも黒戸尾根は難ルートで、梯子を上り、鎖につかまり、岩を攀じ登り、ときに両側がスッパリと切れ落ちた「刃渡り」を通過する手強い登りです。200年ほど前にルートを探しながら、何年もかけて道を切り開いた修験者の権三郎は、並々ならぬ決心と覚悟で臨んだものと思われます。
寛政、文化、文政時代は、御嶽山、赤岳(八ヶ岳)、木曽駒ヶ岳などの開山が盛んだったようです。御嶽山や木曽駒ヶ岳、甲斐駒ヶ岳などの山岳信仰を興し、開山した山への登拝をするための「講」が結成されていました。甲斐駒ヶ岳への信仰の道、黒戸尾根には、観音菩薩などの石仏が奉納され、今でも登山道脇には往時が偲ばれます。
ところが、何故かこの駒ヶ岳参詣の道は、お上から使用禁止となりました。文政7年(1824年)のことです。「登拝の道に勧請された石仏の刻銘がのちのち土地争いの原因となる」とか、「釜無川の氾濫の原因は無法者が駒ヶ岳に登るからだ」とか諸説伺われますが、真意はよくわかりません。
25才で夭逝した小尾権三郎の意思を継いだ諏訪の人たちが、文政7年(1824年)、伊那側から白崩嶽(駒ヶ岳)に登れるようにと、黒河内村(現伊那市長谷黒河内)の山奉行を介してルートを開きました。長谷戸台から赤河原を遡り、七丈滝尾根、六合目石室を経て駒ヶ岳に至るルートです。
今年は伊那側からの登拝ルートが開かれてちょうど200年となります。

伊那市長 白鳥考

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