◆雑草という草はない
人権同和教育指導委員 依田 修子(よだ しゅうこ)
私が小中学生だった頃、図書館に膨大な数の図鑑が並んでいた牧野富太郎博士の生き方が昨年ドラマ化され、それに関する本も出版されました。私は「雑草という草はない」という副題に誘われて手に取ってみました。
もの言わない植物たちに、牧野博士は「自分の出世や名誉のためではなく、日本の植物学のためなんだ。雑草という植物などない。名がないならつけてあげればいい。一つ一つの草花はそれぞれに違いがあり、それぞれ精いっぱい生きて名をつけることで、違いがはっきりして生き生きして見える」と。
牧野博士は、植物採集には正装し、大地に腹ばい頬ずりせんばかりに慈しみ、細かな観察を続けました。この様な植物への眼差しは、私たちの生き方、考え方を改めて考え直すことにもなったように感じました。
今年一月一日の信濃毎日新聞では、東京大学の井原准教授も「園芸に用いる植物が多様化することで、花などの美しさの概念は変わっていくとも見ている」と言っておられました。確かなものは時代を超えても新たな発展を生みだしていくのです。
昨年は、人権に関わる事案が毎日のように報道され、人権侵害が過去にさかのぼって明らかになることが続きました。当人の訴えが隠ぺいされてきた事実が、それを見逃さない人によって白日の下に晒されたのです。私たちは、差別をされている人が現実にいる事実にきちんと向き合い見逃さない社会を作っていかなければならないのです。
昨年の6月にはネットによる差別事象について、東京高裁が「差別されない権利」を認めた画期的判決があり、一人一人が幸せに生きる権利を再確認する判決が出されました。それはまさに、牧野博士の一つ一つの命を大切にしようとする姿に通ずるものです。部落差別をはじめとするあらゆる差別の解消は、当事者の立場に立って進めていくことが大切な視点です。差別は長い年月の中で冷静に分析、判断され、差別撤廃のために積み重ねられた努力と歩みによって明らかにされてきています。
今後も、牧野博士の植物に対する眼差しのように、個を大切に慈しみ変化を受け入れていく努力をしていかなければならないと私は考えます。
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