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下田開港170周年記念事業 開国のカケラを集めて~北の黒船来航~

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静岡県下田市

~つながる・未来・グローカル~

■波乱の日露条約交渉
日本の開港というとペリー率いるアメリカとの条約交渉が有名ですが、これに続いて様々な国が国交を結ぶべく日本を訪れています。中でもロシアは早い時期から条約交渉を始めていましたが、その道のりは困難の連続でした。
ペリーが去ったわずか数か月後、ロシア公使であるプチャーチンは、下田富士の麓にある福泉寺で幕府の役人と会談を開始しますが、この途中で大きな災害に見舞われます。

■津波とディアナ号の沈没
1854年12月23日朝、南海トラフの東側を震源とする「安政東海地震」が発生し、下田をはじめとする沿岸部を大きな津波が襲いました。
中でも海に近い下田町内の被害は甚大で、千軒近くあった住居のうち被害を免れたのはわずか数十軒のみ、また、了仙寺の本堂には、この時流されてきた船がぶつかったとされる傷が今も残っています。
ロシアの軍艦ディアナ号も被害を受け死傷者も出ますが、そのような状況下にあっても、下田の町民の救助や救護への協力を申し出ています。
その後、修理のための回航中にディアナ号は駿河湾内で沈没しましたが、乗組員は救出されます。代船として、日露共同による日本初の洋式船が建造され、沼津の戸田村で造られたことから、「ヘダ号」と呼ばれました。

■帰国への長い旅路
一方で、この間も条約交渉を続けていたプチャーチンは、1855年の2月7日、日露和親条約を長楽寺で締結し、目的を果たします。
任務を終えた一行ですが、新造されたヘダ号だけでは全員が乗り切れないため、分散して帰国の途に着きます。しかし、帰るために雇った船は、当時敵対していたイギリスに途中で拿捕(だほ)され、ヘダ号に乗船したプチャーチンも、ロシアで陸路を何百キロも歩き、ようやく首都のペテルブルグに着いたのは約半年後のことでした。
波乱に満ちたロシアの条約交渉ですが、その舞台となった下田では日本人との交流もありました。安政東海地震の津波で被災したロシア兵の墓地が建てられた玉泉寺や、彼らが出航したロシアの港の名にちなんだ、まどが浜海遊公園の「クロンシュタット広場」などでは、日露交流の歴史を今に見ることができます。

問合せ先:企画課政策推進係(河内庁舎2階)
【電話】22-2212

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