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森町の歴史~歴史民俗資料館だより~ 教育委員会社会教育課

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静岡県森町

■第三話 徳川家康ゆかりの鋳物師・山田七郎左衛門(その三)
(広報もりまち令和5年8月号「森町の歴史・第二話」からのつづき)
現在の森町の中心街は、商売の町、秋葉街道(塩の道)の宿場町として賑わい、江戸時代から明治時代の初めにかけて「森町村(もりまちむら)」と呼ばれていました。「森町」までが地名であり、「森」は三島神社の杜(もり)が由縁といわれ、「町」は「町場(まちば)」(都会)としての意味を持っていました。このことが、現在でも「森町」の呼び方が「もりちょう」ではなく「もりまち」である由来です。
森町村の始まりである「森市場」は、遠州一宮の中心寺院であった八形山蓮華寺の門前に営まれた市場(定期的に人が集まり商いを行う場所)で、鎌倉期には成立したと考えられています。戦国時代の天正5年(1577)、徳川家康は森市場に禁制(きんぜい)を下しました。内容は、市場の秩序維持を目的としたものですが、同時に山中の物資を森市場に集めようとするものでした。この禁制により、森市場は更に賑わうようになりました。
森は信州街道(塩の道)、川根筋、東海道筋が交差する要衝であり、一宮荘太田郷に属する森には鋳物師(いもじ)が居住し、武器、仏像、釣鐘、鍋、釜を鋳造していました。家康は、遠江支配をより強固にするために、森市場を発展させることが重要であると考えたのかもしれません。そして、天正15年(1587)に、家康は山田七郎左衛門に対して「駿遠両国鋳物師惣大工職(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」の朱印状を与え、森の山田家が駿遠における鋳物の製造・販売を取り仕切るようになりました。その後、七郎左衛門の弟の六郎左衛門は、駿府における家康の御用鋳物師になったといわれています。つづく。

問い合わせ先:教育委員会社会教育課文化振興係
【電話】85-1114

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