■長沢鼎 Vol.7「排日の嵐(1)」
1893年、長沢鼎がファンテングローブワイナリーの実質的責任者となり、出品したサンフランシスコのワイン品評会で2位という輝かしい成績を収めた頃、カリフォルニアに住む日本人に対する風当たり(排斥)が厳しくなります。同年、サンフランシスコ市教育委員会が日本人児童を公立学校から排除し、東洋人学校へ編入する条例が決議されるという日本人にとって衝撃的な事件が起きます。この時は、在サンフランシスコ領事の珍田捨巳と在留日本人の有力者たちの抗議により廃案となりました。長沢も珍田と親交があったため、これらの動きについて、情報を共有していたものと考えられます。
その後もサンフランシスコにおける排日の動きは活発化します。1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生。壊滅的な被害を受け、日本からも義捐金が送られました。しかし、同年10月、またもや日本人児童を隔離するという決議が出されます。この背景には当時のサンフランシスコ市政を、白人労働者を支持する組合労働党が牛耳っていたことや日本人移民の増加に対するカリフォルニア州民の意識の変化がありました。1882年の中国人排斥法成立後、日本人に対する排斥の目立った動きは見られなかったのですが、日本人労働者の低賃金でも勤勉に働く姿に白人労働者が危機感を抱くようになったのです。米国移民の日本人第一号と言われる長沢鼎が米国社会で認められる存在となる中、皮肉にもサンフランシスコを中心に、各地で日本人に対する暴動事件が起こるようになっていきます。
薩摩藩英国留学生記念館スタッフ 畠中 敬子
参考文献:『カリフォルニア州の排日運動と日米関係』蓑原俊洋著
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