私たちは、学校の教科書で初めて「戦争」の悲惨さを知る。その被害の大きさを知り、戦争をしてはならないと学んだ。
しかし、私たちは「戦争」を、どこか遠いところで起こったことのように感じていないだろうか。私たちが学んだ戦争は、紛れもなくこのまちでも起きていた。多くの人々が戦闘機の機銃で襲われ、爆弾が落とされた。失われた多くの命。教科書では知ることができない出水の戦争の歴史を知ることで、私たちは戦争をより身近に感じ、そして向き合うことができる。
今回、4名の体験者たちの記憶から当時の様子を振り返る。
終戦から79年を迎え、戦争を記憶している世代が市の全人口の4%を切った今、戦争を体験していない私たちに何ができるのだろうか。
■出水市が体験した戦争の歴史
◆沿革
1937[S12]/出水・米ノ津・高尾野3町長国へ飛行場設置の陳情
1939[S14]/飛行場用地買収開始[鹿島・大野原地区]
1940[S15]/飛行場完成・飛行訓練開始
1942[S17]/海軍出水航空隊発足
1944[S19]
/掩体壕建設開始[旧制出水・川内中学生動員]
/人吉海軍航空隊出水教育分工廠建設開始[下水流地区/後の海軍第二出水航空隊]
1945[S20]
/米軍初空襲[3月18日]※以後8月まで十数回
/特攻機初出撃[3月19日]※以後6月まで十数回
/終戦[8月15日]
/米軍が上陸するという誤情報が市内に一斉に広まる[8月15日]
1960[S35]/慰霊碑「雲の墓標」建立
◆数字で見る出水の戦争
◇軍人・軍属の人数
出水航空隊:3,000名[最大期]
第二航空隊:2,000名[最大期]
◇戦死者・死亡者
出水航空隊:600名以上[飛行士のみ]
第二航空隊:不明
民間人:20数名
◆体験者たちが語る戦争の記憶
◇トラックで運ばれていた 坂元サツミさん[100]
出水実業学校(現出水工業高校)で洋裁・和裁を学んだ坂元さん。卒業後、出水や鹿屋に航空基地ができると聞き自ら応募した。飛行機の計器類の修理技術を学び、出水にある工場で働き始めた。当初は空襲もなく楽しく仕事をしていたが、昭和20年3月、出水が初めて空襲を受けた時から状況が一変した。「空襲を受けた後、トラックで何かが運ばれていた。死体だった。100体くらいはあったと思う。恐ろしかった。怖かった。その後、出水から特攻機が出撃するようになった。縫い物をやっていたから、特攻機に乗る若者たちのマフラーを縫い、手を振り見送った。」
長崎に落ちた原爆のキノコ雲が出水から見えたと話す坂元さん。「原爆や戦争で関係ない人たちや子どもたちがたくさん亡くなった。本当に、悲しい。」
◇下校中の空襲警報 藤本健一さん[86]
生まれた年に日中戦争が勃発し、「戦争はあって当たり前だと思っていた。」と過去を振り返る藤本さん。「当時は空襲警報が鳴るとすぐに防空壕に逃げていた。防空壕に隠れている時、3歳の弟はぐずぐず言ったりわめいたりするので静かにしろと周りに言われていた。しゃべっても飛行機に聞こえることはないが、怖くてみんなしゃべらずじっとしていた。長い時は半日くらい隠れていた時もあった。」
昭和20年4月、小学2年生の時に恐ろしい経験をする。「ある日学校帰りに突然警報が鳴り、今のトゥモロー(高尾野)辺りで機銃掃射に遭った。隠れる場所がなく、「撃たれる」「死ぬかもしれない」という怖さで必死に逃げた。その恐怖が脳裏から今も離れない。今でもウォーンウォーンという飛行機の音が聞こえると怖い。何年経ってもその音が頭にこびりついている。」
◇壮絶な光景だった 山下七郎さん[90]
戦争が徐々に激しさを増していく昭和19年、当時小学5年生の山下さんは歯がゆい記憶を思い返した。「学校に行っても授業はなく、奉仕作業ばかり。砲台作りをしていたよ。土を運んで土塁を作る毎日。仲間たちとたくさん遊びたかった。けれどできなかった。」
クラスで前日の空襲で空いた滑走路の穴埋め補修作業に行った時のことだった。「警報が鳴り、敵機が襲いかかってきた。基地は危ないので近くの杉林に逃げこんだが、そこには前日の空襲でやられた多くの死体があった。頭や手首など体の一部が木に掛かっていて、恐ろしい光景だった。」その他にも隠れていた防空壕の数メートル先に爆弾が落ちたり、従兄弟の子が空襲で命を落とすなど、壮絶な経験をした。
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