■明治の先覚者 町田一平(いっぺい)翁
○町田一平翁
旧垂水フェリーの駐車場の奥まった一角に「第6垂水丸遭難者慰霊碑」が建っています。そこから数メートル東側の広場に、海を見つめている町田一平翁の胸像があります。
町田一平翁は明治3年、現在の垂水高校にあった町田邸で、案山子(かかし)の長男として生まれました。父である案山子は、垂水島津家筆頭家老で13代目にあたり、戊辰の役にも隊長として参戦しました。
一平翁は垂水小学校で神童とよばれ、鹿児島造士館へ進学し、ここでも成績優秀・運動能力に長け、陸上・野球で活躍しました。明治22年に入学した現在の東大農学部では、野球でも名を残しています。
卒業後は垂水市に帰り、温州みかんの栽培など農業改革に取り組み、25歳で垂水農会初代会長、32歳で郡会議員、37歳で議長をつとめました。
また、明治33年には鹿児島にあった簡易農学校を鹿屋に移し、現在の鹿屋農高を誘致しました。
○鹿児島市と大隅半島を結ぶ
大正7年、自ら作った発動機船を垂水~鹿児島間に就航させ、大正10年には、定期航路を実現しました。昭和5年に垂水汽船会社となり、垂水~鹿児島間を50分で結び、大隅半島の人々の生活や文化が大きく発展しました。
しかし昭和19年、太平洋戦争末期に第6垂水丸が沈没、540名余りの人々が亡くなりました。被害者への補償などで一時経営は厳しくなりましたが、息子の畯(じゅん)氏が社長に就任し、その後、昭和35年南海郵船となり、昭和49年からは垂水フェリーが就航しました。
一平翁は、昭和20年に74歳で亡くなり、昭和45年に功績を顕彰するため、現在の場所に胸像が建てられました。
○町田一平翁の逸話
一平翁の息子、四郎氏は垂水市教育長、そして垂水市長を二期つとめました。
近年、四郎氏の娘さんから直接聞いた一平翁の逸話として、一平翁が東京から結婚相手を伴って帰省しましたが、家柄が合わないと反対され、東京に帰ることとなり、一か月余りの時間をかけ、船旅で別れを惜しんだといいます。
垂水島津家筆頭家老という家柄の長男の結婚は、本人の意思より、家と家の繋がりが優先されました。
町田家の屋敷は、垂水麓の中心にありましたが、現在は更地となっています。
▽参考資料
『ふるさとの歴史(垂水市垂水編)改訂版』(平成十七年九月十七日発行)
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