■魔物封じの砦 垂水の石敢當(せっかんとう)
○石敢當とは
鹿児島県内の古い町並みなどを散策していると、道の突き当りのところに「石敢當」(せっかんとう、いしがんとう等)と彫り込んだ石塔を見ることがあります。昔から道の突き当りや辻などには、魔物が集まるという土俗信仰があり、その魔物封じとして立てられたと考えられます。垂水でもひと昔前まで男性の四十二才の厄年には、晩になってから近所の辻に、年の数だけ小銭をばらまく厄落としの習慣がありましたが、これも辻には魔物がいるという俗信につながるのかもしれません。
石敢當の名前は、古くは中国の前漢末、名前などを解釈した『急就篇(きゅうしゅうへん)』という本に出てきます。その昔、衛(えい)や鄭(てい)や楚(そ)の国に石の姓を名乗るものはすべて一族で、それぞれ武に優れたものばかりでした。「敢當とは向かうところ敵なしの意味だ」とあり、石敢當は魔物封じの砦だというのです。従って石敢當は「向かうところ敵なしの石一族ここにあり」くらいのことと思われます。石一族の力にあやかって、辻々に石塔を立てることにより、魔物封じにする信仰が生まれたのでしょうか。
石敢當を立てる風習は、中国南部から琉球、奄美、本土南九州まで分布しているため、中国から伝播して北上してきたと考えられています。一方で奄美には、修験道の九字「臨兵闘者皆陳列在前(りんぴょうとうしゃかいちんれつざいぜん)」の格子紋を刻んだものも見られ、薩摩修験道からの介入があることを指摘する研究もあり、山伏系統の薩摩士族たちの影響を感じさせます。
鹿児島県内への普及は十八世紀初頭から始まると考えられ、鹿児島県内最古の石敢當は、旧入来町の元文四(1739)年に立てられています。
○垂水にある石敢當
垂水市内では今のところ、七つの石敢當が確認されています。垂水高校の北西、後馬場の道路クランクに一つ。新城では麓公民館の南側道路脇、新城麓の安楽家(現在は無人)の石垣の上の二つ。牛根では牛根城麓下に立てられている安楽備前守の看板付近と、深港の旧道の突き当たり二つ。水之上小学校付近の故有馬茂氏宅入口付近と、楠木雅己氏宅内の二つです。
石敢當はほとんどが縦型ですが、変わり種として新城の安楽家のものは横型であるのが特徴です。また、牛根麓のものは「石當散」と文字が入れ替わった上に「敢」が「散」に変化していて、昔の人のものにこだわらない大らかさを感じます。石敢當の分布が江戸時代、武士が住んでいた地域と重なっているのも、興味を惹かれます。
石敢當には目に見えない魔物への畏敬の思いがこめられ、昔の人々の精神文化を垣間見せてくれます。しかし、長い間人々のために魔物を封じてきた石敢當も、今は道路の整備などによって場所を移されたり、草木に覆われたり、行方不明になるなどの災厄に遭っているのが現状です。
▽参考資料
『石敢當の現況』著者:松田誠
『薩摩路の民俗学』著者:下野敏見
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