■続・復帰運動の狼煙
2022年12月号の本コーナーにおいて、本町亀津出身の爲山道則氏ら宮崎県奄美大島青年団が、全国の奄美会に「青年よ、立ち上がれ」と呼びかけた檄文が復帰運動の「点火剤」となった、と紹介されています。奄美群島日本復帰70周年を迎える今月号では、さらに宮崎での復帰運動のひとこまをご紹介したいと思います。
檄文が発せられた5日後の昭和25年(1950)2月22日、3200名の署名を添え、宮崎県奄美大島青年団が盛福俊氏(徳之島町出身、写真(1))を陳情者代表として、宮崎県議会議長宛てに「奄美大島の日本復帰陳情」(*ここでの奄美大島は奄美群島全体を指す)を提出しています。この陳情書は同年2月県議会で取り上げられ、3月19日に満場一致で決議されました。これは、鹿児島県議会の決議(3月28日)に先駆けています。なお、盛福俊氏も爲山氏と同じく、宮崎県庁に勤務し、県立農業大学校校長も歴任したといいます。
写真(2)は、奄美群島の日本返還の方針が示された昭和28年8月のダレス声明を受け、宮崎県庁まで南日本新聞社の車を先導に行われた徳之島町出身者らによるデモ行進を写したものです。バス停標識に「東大島町」と見えます。また、当時の宮崎県知事が一行を出迎えている姿も確認できます(写真(3))。
これまで紹介した事実や写真提供は、沖永良部島和泊町在住の平幸弘氏からいただいたものです。平氏は平成15年以来、「宮崎における復帰運動」を調査されています。平氏によれば、写真(2)・(3)は徳之島町出身の秋月輝雄氏の長女栄子氏から提供されたものとのことです。
あれから70年が過ぎようとしています。戦争と同様、復帰運動も非体験者がその記憶をどう引き継いでいくかという課題に直面しています。そのとき、国際関係史や復帰協議会史だけではなく、宮崎で活動した本町出身者や本町の復帰記念式典(11月5日開催)のテーマであった「第46代横綱朝潮太郎と復帰史」なども大切な観点となると思われます。
(町誌編さん室 竹原祐樹)
※各写真は本紙をご覧ください。
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