■古文書からひも解く「ノロ」の謎
昨年の広報徳之島10月号で、徳之島で祭事を取り仕切っていた「ノロ」の、勾玉などの祭祀具を納める「朱漆山水人物箔絵丸櫃(シュウルシサンスイジンブツハクエマルビツ)」をご紹介しました。今回はそのノロに関する研究ついてご紹介したいと思います。
実はノロに関し、根拠となる資料は非常に少ないのが現状です。と言うのも、島は口伝(口承での伝達)の時代が長く、文字の資料が残されるようになったのは、江戸時代に薩摩藩の配下に置かれて以降が主となるため、同時期の琉球王国や日本、周辺の島々に残る資料から推測せざるを得ません。
奄美群島が琉球王朝の統治下に置かれた15~16世紀、各島々は間切りという行政区画に分けられ、首里大屋子(しゅりおおやこ)・大屋子(おおやこ)・目差(めざし)・掟(おきて)・文子(てっこ)といった役人が統治していたのではないかと推測されています。その根拠となるのは、奄美大島には各間切りへ派遣する琉球王府より発給された上記役人の辞令書が残っているためです。
徳之島ではそのような辞令書は見つかっていませんが、郷土資料館では、朱漆山水人物箔絵丸櫃(シュウルシサンスイジンブツハクエマルビツ)を含めたノロ資料の一つとして、琉球王府から発給された「ノロの任命状」を展示しています。
先に述べた役人とは別に、奄美おける村落祭祀を司っていたのがノロと呼ばれる神役(神女)であり、各間切りにおける祭事を取り仕切る権威ある存在として任命されていました。
ところが、1609年以降に薩摩藩の配下に置かれると、琉球王府による辞令書や任命状などの発給は禁じられ、ノロの役も廃止。島内にあった祭祀の場「神木屋」も解体するよう命じられました。
本町に残る任命状は、日付が万歴28年(1600年)のものであることから、薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以前のものであり、現存する琉球王府発給のノロ任命状の中でも最晩年に当たることが分かります。藩政下の役人が命じた文書が残っていることで、文献としての資料が乏しかったノロの役割や祭祀の方法などが判明するというのは少々皮肉にも感じます。本町に残る古文書から分かったことや推測されることを、次回もご紹介したいと思います。
(郷土資料館長 遠藤 智)
問合せ:郷土資料館
【電話】0997-82-2908
<この記事についてアンケートにご協力ください。>