■指宿橋牟礼川遺跡国指定100年!火山噴火で埋もれた古代のムラ~飛鳥時代編~
開聞岳は、今から約4,400年前の縄文時代後期に海底から水蒸気爆発を起こして誕生しました。以来、平安時代にかけて12回の噴火を繰り返しており、指宿に住む古代の人々の生活に密接に関わってきました。
国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡(以下、橋牟礼川遺跡)は、開聞岳の噴火による火山災害遺跡として知られています。昭和61年~平成3年にかけて行われた発掘調査によって、橋牟礼川遺跡は飛鳥時代と平安時代に2度の開聞岳の噴火で埋もれた火山災害を経験したことが明らかになったのです。
飛鳥時代、開聞岳の11回目の噴火が起こりました。この噴火による噴出物は青灰色をした火山灰やスコリア※1から構成されるため「青コラ※2」と呼ばれており、橋牟礼川遺跡では10〜20cmの厚さで堆積しています。青コラは非常に硬いため、発掘の際は山くわやつるはしでたたきながら掘り進めなければなりませんでした。この青コラの中から、「須恵器長頸壺(すえきちょうけいつぼ)」と呼ばれる窯で硬く焼き締められた焼き物が出土したのです。壺は斜めに倒れ、青コラに埋もれた状態で発見されました。壺の内部に入り込んでいた青コラを詳細に観察すると、噴火が始まって最初にスコリアが降ってきた後、火山灰が降り注ぐ中でこの壺が立っていたことや、その後、何らかの原因で壺が倒れて、そのまま火山灰に埋没したことが分かったのです。
長頸壺は祭祀(さいし)に用いられる性格があります。例えば福岡県の大宰府では役所跡の柱の穴から長頸壺が出土しています。これは、九州を統括する重要な国家機関である大宰府の建設に当たり、安寧を祈願して「地鎮」を行った際に地中に納められたものと考えられています。また、古代において火山噴火は神のたたりとみなされていました。以上のことから考えると橋牟礼川遺跡で出土した長頸壺は、開聞岳の噴火を鎮めるための地鎮の儀礼が行われた際に大地に置かれたのかもしれません。
次回は平安時代の火山災害について紹介します。
※1 火山礫のうち多孔質で暗色の物。
※2 開聞岳の噴出物は亀の甲羅のように硬いことから「コラ」と呼ばれている。
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