■旧郷土史刊行から約40年。指宿も変わりました。
郷土史は自治体が出版するそのまちの正式な歴史書です。旧指宿市・旧山川町・旧開聞町の郷土史(旧郷土史)は刊行して25年~40年ほど経ちました。その間、1市2町が合併し今の指宿市が誕生、まちも大きく変わりました。同時に、この40年ほどで指宿のイメージを大きく変えるような歴史的発見もあり、指宿はものすごい場所であることがこれまで以上に明らかになってきたのです。これまでの発見の中から新指宿市史に掲載されるいくつかを紹介します。
■指宿がものすごい所だと示す新たな事実とは?
(1)指宿には3万年も前から人が住んでいた!
小牧の西多羅ヶ迫(にしたらがさこ)遺跡では3万年前の人々が使った石器が多数発見されました。旧郷土史には本市の最も古い遺跡として2万年前の遺跡が掲載されましたが、なんと1.5倍も歴史が古くなったのです。
(2)発掘調査員も驚き!ポンペイ遺跡みたいな発見
敷領遺跡では874年の開聞岳の噴火で埋もれた建物が発見されました。建物にはかまどがあり、なんと鍋がかかったままの状態で埋もれていたのです。
(3)幕末に大砲で使う火薬の材料が生産されていた!
江戸時代の終わり、欧米諸国の脅威に対応するため、山川港をはじめとする沿岸部に鹿児島藩が多数の砲台を設置しました。火薬は成川の工場で製造されましたが、最も重要な材料の硝石はヨーロッパの技術を導入した湊地区の施設で生産されたのです。このことは、当時の指宿郷役人である前田勘助(まえだかんすけ)が日記に書き残していたことで分かりました。
(4)揖宿神社は異国船を追い払うために建て替えた!
弘化4年(1847)に藩主島津斉興(しまづなりおき)の命令で揖宿神社の社殿などが建て替えられました。その時に奉納された扁額には神仏の徳の力に相手が従って自ら退くという意味の「敵国降伏(てきこくごうぶく)」と書かれていました。外国船の脅威の最前線だった指宿。藩主の強い祈りが今も残されているのです。
◆指宿市の古い資料や写真があればご一報を
・古い文書・絵・地図・日記・手紙
・地域や暮らしの思い出・言い伝え
・明治から昭和の風景や行事などの写真・映像
・市内の団体などが刊行した記念誌
池田校区の久保田さん(写真右)から『薩摩半島史績名勝寫眞帖』(昭和17年刊行)の情報を頂きました。
※詳しくは本紙をご覧ください。
問合せ:市史編さん室市史編さん係
【電話】080-8210-1656
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