国道10号沿いにある鑰島(かぎしま)神社の鳥居の横に、大小の石碑が建っていることを知っていますか。大相撲第30代横綱・西ノ海嘉治郎(かじろう)の顕彰碑です。
3代目西ノ海は明治23(1890)年、鑰島神社がある隼人町真孝に生まれ、本名は松山伊勢助といいます。伊勢助は身長六尺五寸(197センチ、一説には185センチ)、体重三十一貫(112.5キロ)と恵まれた体格でした。小碑の碑文には、20歳で井筒部屋に入門し、大正12(1923)年に横綱になったことが記されています。
「西ノ海」という四股名(しこな)は、明治29(1896)年に井筒部屋を再興した鹿児島県出身の初代西ノ海以来、同部屋に所属する県内出身の横綱が名乗りました。伊勢助は明治43(1910)年1月場所にて源氏山(げんじやま)という四股名で初土俵を踏み、横綱になった後に西ノ海の名を継いでいます。2回の優勝を飾った西ノ海は、昭和3(1928)年に引退し年寄・浅香山を襲名。井筒部屋から独立して浅香山部屋を再興し後進を育成しました。
■後に続く力士たち
3代目西ノ海が開いた浅香山部屋には、隼人町からも力士が入門。昭和4(1929)年に初土俵を踏んだ源氏山、昭和8(1933)年初土俵の三舩浪(みふねなみ)です。ところが西ノ海は部屋を興して5年弱で亡くなってしまい、浅香山部屋は井筒部屋に吸収される形で消滅し、力士も同部屋に移籍しました。その後源氏山は前頭15枚目、三舩浪は十両5枚目まで昇進。現役のまま亡くなった三舩浪の墓石には「(※1)大日本東京大角力(おおずもう) 十両力士・三舩浪」と刻まれ、その早い死を悼んでいます。
他にも本市出身の井筒部屋の主な関取として、福山町出身の錦洋(にしきなだ)が大正6(1917)年に初土俵を踏みました。大日本相撲協会での最高位は関脇でしたが、移籍した関西角力協会では大関を務め、中心となって活躍しました。大正14(1925)年に初土俵を踏んだ国分出身の國ノ濱は前頭5枚目まで昇進しました。
大正から昭和初めの関取衆の活躍は、後の牧園町出身の大関霧島(現・陸奥(みちのく)親方、第5代おじゃんせ霧島大使)や、隼人町出身の鶴ノ富士などへ続いていきました。
鹿児島県が相撲が盛んな地であるゆえんは、こういった先人の活躍が大きく影響しているのでしょう。
◇前頭・梶ケ濱(かじがはま)
さらに時代をさかのぼって江戸時代に評判になった関取を紹介します。梶ケ濱力右エ門(りきえもん)という大隅国(※2)桑原郡出身の力士です。
梶ケ濱が新入幕した寛政2(1790)年から引退した寛政6(1794)年頃は、相撲ブームのただ中でした。当時無敗を誇ったのが、大相撲史上最強といわれる大関雷電(らいでん)です。梶ケ濱はこの大スターに土をつけた数少ない力士として名を挙げ、錦絵や絵皿に描かれました。今でいう、スポーツ選手のポスターやグッズのようなものでしょうか。
今も昔も、郷土出身者が活躍するのはうれしいものですね。
(文責=堀之内)
※1 日本相撲協会の前身。
※2 江戸時代の桑原郡は、隼人町の一部と横川町・牧園町・湧水町の全域を指す。
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