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【郷土史への扉】

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鹿児島県霧島市

■舞鶴城の姫君
10月4日、鹿児島市立美術館の庭にある石像「じめさあ」の化粧直しが行われました。この石像は、島津家第十八代当主で薩摩藩初代藩主である島津家久(いえひさ)の正室・亀寿(かめじゅ)の像とされています。

▽じめさあ
「じめさあ」とは、亀寿の法名「持明院(じみょういん)」を鹿児島弁で言い表したものです。亀寿は器量に優れなかったものの心優しい人柄で、人々から慕われたといわれています。
この石像については、持明院の縁(ゆかり)の寺・大乗院にあった白地蔵であるという説や、風の神として信仰されていた石像であるという説も。本当に亀寿の石像であるかは諸説あるようですが、現代でも「じめさあ」として親しまれ、命日の10月5日ごろになると供養のため、鹿児島市の職員が化粧直しを行うのが恒例となっています。

▽亀寿
島津家十六代当主義久(よしひさ)は、三人の弟たちと共に戦国時代の混乱から薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げました。九州制圧まであと一歩の勢いでしたが豊臣秀吉に敗れ、剃髪(ていはつ)して降伏。天正15(1587)年、秀吉に恭順の意を示すための人質として京に赴いたのが、義久の三女・亀寿でした。翌年帰国を許された亀寿はほどなくして、叔父・義弘(よしひろ)の子である久保(ひさやす)と結婚しました。義久には息子がいなかったため亀寿が事実上の跡取りとみなされており、久保は入り婿として次期当主の立場を得ました。

▽御上様(おかみさま)
結婚後、御上様(於上様)と呼ばれるようになった亀寿と久保の夫婦仲は、とても良好であったといわれています。文禄元(1592)年、久保は秀吉の命により文禄の役で朝鮮に出兵し、亀寿は再び人質として京へと向かいます。翌年、久保が朝鮮で病死してしまうと、亀寿は秀吉の命により久保の弟・家久と再婚。家久は次期当主の座に就きました。
亀寿の人質生活はその後も続きますが慶長5(1600)年、関ケ原の戦いで、同じく人質となっていた義弘の正室らとともに脱出。薩摩に帰国する義弘と合流し、帰国を果たしました。亀寿はこの時、富隈城(隼人町)に居住していた義久と対面しています。
帰国後、正室として家中で重きをなした亀寿でしたが、家久とは不仲で子はできず、家督を巡って次第に対立を深めていきました。

▽国分様
慶長9(1604)年に国分の舞鶴城へ移っていた義久が病気になると、家久は義久の看病を名目に亀寿を舞鶴城に移し、慶長16(1611)年に義久が死去すると、そのまま別居しました。国分(国府)様や国分御上様などと呼ばれた亀寿は、寛永7(1630)年に60歳で死去するまで、舞鶴城に住んでいたのです。
夫と別居した後も、島津家の嫡女として権威を保持していた亀寿は、姉・御平(おひら)の孫娘が家久の側室として生んだ子・光久(みつひさ)を養子にして次期当主に指名。義久の血を引く光久は、第2代藩主として薩摩藩の発展に力を注ぎました。
夫には恵まれなかった亀寿ですが、人質としての島津家への貢献や、嫡女としての権威から、島津家の歴代夫人の中でも別格とされていました。鹿児島の歴史に深く影響を及ぼした姫君が後半生を過ごした舞鶴城。城跡の石垣と亀寿の館の門であったと伝わる朱門(あかもん)が、往時をしのばせます。
(文責=堀之内)

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