旧暦1月18日を過ぎた最初の日曜に開催される初午祭。470年余りも続く特色ある祭りの起源と裏側を探ります。
■南九州に春の訪れを告げる初午祭。馬が踊りを奉納するという一風変わった祭りはどのようにして始まり、今日まで続いてきたのでしょうか。
《初午祭の起源》
初午祭の起源は「御神馬(ごしんめ)奉納説」と「霊夢説」の二つが語り継がれています。
▽御神馬奉納説
神宮の祭りに使われる馬(御神馬)を預かって飼っていた加治木町木田の人々が、成長した馬を美しく飾り付け神宮に参拝していた。やがてその参拝が評判になり、周りの村々も馬を連れてお参りするようになった。
「初午祭は鹿児島神宮にとっても、例祭に次ぐ大切な祭事。馬は神様の移動に使われるので、今も神社には絵馬が飾られます。このように馬と神社の関係は強く、中でも初午祭は馬が踊りを奉納する、全国でも珍しい祭りです」と話すのは、鹿児島神宮宮司の幸野珍廣(うずひろ)さん(68)です。「いわれとしては諸説ありますが、記録として養和元(1181)年に奉納された神馬を神宮で飼育しており、その後神馬屋敷が加治木町木田郷に置かれ、明治の頃まで残っていたとあります。この神馬の参拝が次第に装飾を加え、人馬一体となって踊る今の初午祭になったのではないでしょうか」と幸野さんは続けます。
▽霊夢説
室町時代、鹿児島神宮の改築工事に訪れた島津家当主・島津貴久の夢に馬頭観音が現れ、自分を祭れば守護神になるとお告げを受けた。同じ夢を神官の桑幡氏、近くの寺の僧・日秀(にっしゅう)も見たということから、馬頭観音像を彫り、正福院観音堂に祭った。この夢を見たのが旧暦の1月18日であり、その日に畜産の発展を願い、馬を連れてお参りするようになった。
宮内地区の歩みや良さを探求する宮内研究会の有川和秀さん(83)は「観音堂は隼人体育館近くにあったとされ、その名残なのか馬の石像が残されています。明治時代の廃仏毀釈により観音堂は壊され、馬の参詣もできなくなってしまいました。それに代わり牛馬の守り神とされたのが保食神(うけもちのかみ)で、保食神社に詣でた人々が鹿児島神宮にもお参りするようになったと考えられます。今の初午祭も保食神社でおはらいを受けてから踊り始めます」と話します。
「馬はかつて車やトラクターの役割を担い、人の暮らしに欠かせない身近で大切な存在でした。隼人地域では保食神社に参拝するようになりましたが、別な形で馬頭観音信仰が地域に根付いているものも。例えば横川地域には馬頭観音の馬踊りが残っていたり、馬頭観音を祭る羽山神社があったりします。農業振興や家畜の安全を願い参拝していたものが、御神馬奉納と融合して初午祭になっていったの頃まで残っていたとあります。この神馬の参拝が次第に装飾を加え、人馬一体となって踊る今の初午祭になったのではないでしょうか」と幸野さんは続けます。宮内地区の歩みや良さを探求する宮内研究会の有川和秀さん(83)は「観音堂は隼人体育館近くにあったとされ、その名残なのか馬の石像が残されています。明治時代の廃仏毀釈により観音のかもしれませんね」
《時代の移り変わりとともに》
「幼少期頃の初午祭は大変なにぎわいだった」と振り返る有川さん。「当時はまだ旧暦の1月18日開催だったので、お祭りが平日のこともありました。その日だけは学校も1限だけで、沿道の出店をのぞきながら学校へ。終われば急いで帰宅して祭りに行き、人をかき分け進んだことを思い出します。今のように食べ物の出店ばかりでなく、刃物や植木、日用品などさまざまな物が並んでいましたね」と目を細めます。
昭和初期には20町村から参加があったと記録が残っており、戦後の昭和25年頃も50頭を超える馬が列をなし、臨時の列車やバスも運行。初午祭の前後には各地の神社でも馬踊りの奉納が行われました。
昭和40年頃になると車の普及や農業の機械化が進み、馬がなくてはならない生活から大きく変化しました。それに伴い初午祭への参加数も減少。祭りの意味合いも厄払いや商売繁盛などが加わっていったとされています。
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