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波佐見の偉人 第9回

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長崎県波佐見町

◆福田 清人(きよと)
◇誕生
福田清人は、明治37年(1904)11月29日に父・和一郎、母・すいの長男として、母の実家・鬼木郷の藤野家で生まれました。福田家は代々、宿郷鹿山に住んでいた大村藩士の家系で、祖父・栄左衛門は、剣術が得意で「桜田門外の変」直後に大村藩内の剣豪20余人の1人として選抜され、江戸の大村藩邸の警備を行うかたわら、剣術道場「練兵館」に通い、師範の斎藤弥九郎から「神道無念流」の奥義を学びました。
その後、栄左衛門は明治11~14年(1878~1881)の間、上波佐見村南部戸長(村長)、さらに明治24年~27年(1891~1894)の間、第2代上波佐見村長、後に土井首村(長崎市土井首町)の村長を務めました。なお、この栄左衛門の父・喜三次(清人の曾祖父)の従兄弟が明治政府の内務省初代衛生局長(厚生労働大臣)を務め、「衛生」という言葉を造った医学者・長與専齋で、先祖は岳辺田郷平瀬居住の大村藩士・長與家につながります。清人は5歳まで鬼木郷の母の実家で過ごし、その後、土井首村長となった祖父、村医として開業した父に連れられて土井首村で少年時代を送りました。

◇黒板勝美との出会い
大正6年(1917)祖父の熱心な希望で清人は旧制長崎県立大村中学校(長崎県立大村高等学校)に入学し、2年生の時に田ノ頭郷出身の大歴史学者・黒板勝美博士の講演で「大きな夢を持て、夢は大きければ大きいほど良い。」という言葉に励まされます。その後、旧制福岡高等学校(九州大学)から東京帝国大学文学部国文科へ進学し、小説など作品を発表しました。

◇教育者として
清人は大学卒業後、昭和4年(1929)に編集者で実業家の長谷川巳之吉が創業した第一書房に入社し、退社後は自身初の創作集『河童の巣』を刊行し新進作家としての地位を築きました。戦時中は日本文化報国会、大政翼賛会、日本小国民文化協会等で文化活動に関わりました。昭和25~52年(1950~1977)の間に実践女子大学や立教大学等で教壇に立ち、近代文学を研究しました。昭和30年(1955)には日本児童文芸家協会の設立に関わり、第2代理事長を10年間務めました。

◇児文学作家として
清人は小説、随筆、文学評論、伝記、俳句、児童文学と、60年にわたる作品出版は数多く特に児童文学ではロマンに満ちた数多くの作品を発表し、昭和32年(1957)、講談社の『少年少女日本歴史小説全集』の企画で『天平の少年』を執筆し、翌年、第5回産経児童出版文化賞を受賞しました。さらに昭和41年(1966)に『秋の目玉』で第4回野間児童文芸賞を受賞し、同年、「鬼木村」で過ごした幼年時代から中学校入学までを描いた自伝的物語である『春の目玉』で第3回国際アンデルセン賞優良賞を受賞しました。同賞は世界中の児童文学の質の向上に影響を与える国際的な賞で、選考水準の高さから「小さなノーベル賞」と呼ばれています。昭和50年(1975)には日本児童文芸家協会会長に就任しました。そして同年、勲四等旭日小綬章を受章しました。当初大人向けの小説を書いていた清人が児童文学を書くようになったきっかけを「児童たちに楽しさのうちにその魂に美を点じ、夢や勇気などを植えつけたい願いからである。」と語っています。

◇俳人・校歌の作詞家、波佐見町名誉町民
5歳までしか波佐見にいなかった清人ですが、波佐見への郷愁の思い強く、「竜胆や壺はふるさと波佐見焼」、「ふるさとの野に風薫り我が碑立つ」など、ふるさと波佐見を愛し懐かしくむ句を多く詠まれています。また、旧東・南中学校をはじめ、東小学校。波佐見中学校、波佐見高等学校の効果を作詞されるとともに、町内の小・中学校、図書館に5000冊以上の書籍を贈られました。昭和55年(1980)5月には、文学碑が波佐見中学校の一隅に建てられ、同年、波佐見町は清人に名誉町民の称号を贈りました。

◇波佐見町への想いそして終焉
清人は「波佐見町宿郷739番地。故郷を離れた人には、いろいろな理由からであろうが、戸籍を現住所に移してしまう人がある。しかし私は移さない。たとえ家はなく、土地を失われていても、波佐見の宿に原籍があるということは、強く私に故郷があるという実感を与えるからである。」と述べていますが、ふるさと波佐見に対する清人の真情を示しています。同地は現在、「福田清人児童公園」となっています。
清人は平成7年(1995)6月13日に90歳で没しました。

学芸員 盛山 隆行

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