文化 鰊御殿とまり ごてん 令和7年6月号

■武井家の家憲
鰊御殿とまり館長 増川 佳子

春の大型連休が終わりました。連休前半は雨模様の肌寒い日が多く、客足も鈍かったのですが、後半は暖かな日差しと満開の桜に合わせて来客数がぐんと伸びました。最終的には10日間で180名弱、昨年より20名ほど多くなりました。小樽の祝津にある鰊御殿(泊村の旧田中家番屋)が1年ぶりに開館していますが、「小樽も見てきましたが、こちらの方が見応えがありましたよ。足を延ばして来てみて良かったです。」などと言ってくださる方もおりますので、新しく作ったポスターを持ってご近所の観光地で PR して来る予定でいます。
さて、武井邸客殿に入ってすぐの所に“武井家家憲”なるものが貼ってあります。この家憲は、初代忠次郎の50回忌にあたる大正9年(1920年)9月24日に制定された家憲綱領を補訂して、大正11年(1922年)1月24日に再制定されたものです。「祖先 初代忠兵衛の偉業を尊び、彼の功績を子孫に至り継承し、一族団結して子孫繁栄を図ることを目的とする。」と始まります。これによって、重要な事項があった場合は同族会議によって検討される仕組みができあがりました。その同族会議に出席できるのが武井家直系五家と定められてもいます。五家とは、カネ中一宗家(茅沼)3代目忠兵衛、カネ中一泊本店2代目忠次郎、カネ中三茂岩2代目總作、カネ忠茅沼3代目重治、一印岩内2代目政治を指します。
この5人が勢揃いして写っている写真が石蔵2階の本棚の脇にあります。どの方も紋付袴で正装し正面を見据えた凛々しい眼差しで写っている印象深い写真です。前列真ん中の宗家3代目忠兵衛と後列右側の泊本店忠次郎と後列左側の岩内政治は実の兄弟(ともに忠吉の妹の子)でよく似ています。
この家憲制定から 4 年後の大正15年1月24日に武井忠吉は旅行中の石川県金沢市で病気のため70歳で亡くなりました。
後を継いだ忠次郎は、初代及び忠吉の功績を継承し、同年の泊小学校舎全焼失の際に、仮校舎として番屋を提供し、新しい体育館を寄贈するなど、村政に大きな貢献を果たしました。今からちょうど100年前の出来事になります。