- 発行日 :
- 自治体名 : 青森県青森市
- 広報紙名 : 広報あおもり 令和7年5月号
弘前藩が1625(寛永2)年、青森~江戸間の廻船就航許可を幕府から得た、いわゆる「青森の開港」から今年でちょうど400年。その翌年、現在の青森市中心部にあたる地域の町づくりが始まりました。
今回は、長い年月や太平洋戦争の青森空襲、戦後の開発などを経てもなお市内に残る、江戸や明治時代のみなとまち・あおもりの痕跡を探す小旅行にご案内!
◆今回お話を聞いたのは…
▽青森市民図書館 歴史資料室
工藤 大輔(くどう だいすけ)室長
・江戸時代専門です
北海道出身。東京での大学院生時代、青森市史編さん事業に従事するために青森市へ。以後、市史、青森県史などの編さんに携わってきた。同市の歴史講座の講師なども精力的に務める。
◆ポイント1 「青森町」は何のためにつくられた?
▽弘前藩の米を船で江戸に運ぶため。米蔵や水路なども造られた。
弘前藩が「青森町」の町づくりに着手したのは、津軽地域の米を江戸に運ぶためでした。
藩は1626(寛永3)年に家臣の森山弥七郎に町づくりを指示。この時藩庁は、陸奥湾沿に東西に延び、そして碁盤の目状の町割りを施しました。さらに、自然の水の流れを活用するほかに、掘り割りを作りました。こうしてできた青森の街並みは江戸時代の海域にみられる港町の特色を備えていて、現在もその痕跡の一部をたどることができます。なかでも、米町の東西を走る掘り割りは、堤川の西側を流れる蜆貝川とともに、米蔵に集められた年貢米を沖に碇泊する船まで運び出す際に活用されたとみています。
◆ポイント2 江戸期の「青森町」には何があった?
▽中心部には米や船の問屋がずらり。町外れには藩主の宿泊所も。
江戸時代の青森町は、概ね西端が現在の青森駅付近、南端が現在の国道4号・7号付近、東端が堤川という狭い区域でした。工藤大輔室長によると、その区域は概ね3つに分けることができ、西部が現在の青森駅付近から善知鳥神社付近まで。中央部が善知鳥神社と現在の平和公園通りの間。東部が現在の平和公園通り付近から堤川までです。
中心部には、米の集積と江戸への運搬に関わる米問屋が集まった「米町」、廻船問屋が建ち並ぶ「浜町」などが形成されました。青森町の中核を担う米町・浜町などの中央部には、江戸期には伊能忠敬やジョン万次郎、明治期には森鷗外など、北方への渡航のため多くの著名人も宿泊しました。
一方、青森町の南側、現在の青森県庁付近にできたのが、弘前藩主の宿泊所である「御仮屋」です。当初は、蝦夷地(現在の北海道)で起きた松前藩とアイヌの戦いの後、北方の有事に備えた軍事的性格をもつ施設でした。
◆ポイント3 町を守っていた神社から何が分かる?(現在の香取神社)
▽狛犬に江戸期の商人名が並ぶ。北前船と深い関わり。
青森市郊外の幸畑団地近く、大矢沢の香取神社は、現在の長島地区にかつて立地し、青森総鎮守「毘沙門堂」という青森町の守り神でした。明治期の神仏分離で香取神社となり、1991(平成3)年に現在地に遷宮しましたが、江戸・明治期などに奉納された石碑などが今も残っています。このうち、幕末の1849(嘉永2)年に奉納された狛犬には、加賀藩の「銭屋」、青森の「滝屋」といった商人の名前がずらりと刻まれ、北陸・関西から蝦夷地までの北前船の交易などの商人ネットワークで青森の町が栄えたことを物語っています。
※詳しくは本紙またはPDF版をご覧ください。
問合せ:歴史資料室
【電話】017-734-5271