文化 上三川こぼれ話 第33話 「日光社参と助郷役」

NHKの2025年大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、江戸時代中期から後期(18世紀後半)を舞台に、江戸のメディア王とも呼ばれた出版人・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の生涯を描いています。江戸や吉原の風習、そこに関わる人々の生活の様子などが描写され、11話では、日光社参の出立の様子が描かれ、江戸の町民たちが興味津々に眺めているシーンがありましたね。
日光街道が通る栃木県、ひいては上三川の人々にとって、日光社参とはどういったものだったのでしょうか。
江戸時代の上三川地域は、宇都宮藩のほかいくつかの藩領・数十名の旗本の知行所(ちぎょうしょ)・天領・寺社領などに細分化され、複雑な支配下に置かれていました。
日光街道とは、江戸から小山宿を経て日光鉢石(はついし)宿までの街道のことで、こうした主要街道の各宿駅では、無料で人馬を提供する伝馬人足(てんまにんそく)と、有料で荷物や人を運ぶ駄賃人馬を用意していました。しかし、日光社参のような大行列になるとそのシステムだけでは人馬が不足したため、近隣の村々から提供させました。この制度を助郷(すけごう)、人馬を提供した村々のことを助郷村(すけごうむら)といいました。助郷は原則として宿場を補助するための一時的な制度でしたが、次第に常態化して強制労働化し、人々と村は疲弊していきました。
上三川の村々も例に漏れず多功から結城まで人馬を継送する費用の補助を領主に願い出た多功宿の百姓や、将軍家の日光社参の際は西蓼沼村から今市宿へ勤めに行ったという記録からも、人々の負担の大きさがうかがえます。
日光社参の華やかさは、日光街道付近の村と人々の苦労によって支えられていたのです。

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