くらし 特集 佐倉市戦後80年事業 平和祈念講演会「つなぐ記憶 つむぐ未来」-1

■戦後80年 平和祈念講演会を開催しました
戦後80年の節目である今年、戦争の記憶を語り継ぎ、平和な未来をつくっていくための講演会を開催しました。
長崎市長をはじめ、さまざまな分野で活動されているかたをお招きし、参加者と一緒に平和について考えました。
皆さんも一緒に、「平和のため、私たちに何ができるか」考えてみませんか。

■佐倉市戦後80年事業 平和祈念講演会 つなぐ記憶 つむぐ未来
開催日:10月26日(日)
会場:国立歴史民俗博物館
戦後80年を迎え、戦争を知る世代が少なくなっていく中で、「過去を知り、未来を考える」ため、こどもたちとその保護者を対象とした講演会を開催しました。
被爆地長崎市の鈴木史朗市長、被爆者の小谷孝子さん、被爆ピアノの平和コンサートで演奏されている南壽あさ子さん、佐倉市と予科練平和記念館の学芸員が登壇し、それぞれの立場から戦争の記憶や平和への思いなどを語りました。
参加者と一緒に、戦争と平和について考える機会となった講演会についてご紹介します

■第1部 戦争と平和を「知る」
◆特別講演「つなぐ記憶 つむぐ未来」
長崎市 鈴木 史朗 市長

▽原子爆弾の被害
1945年8月9日午前11時2分、長崎市の上空約500mのところで、広島に続く人類史上2発目の原子爆弾がさく裂しました。爆心地付近にはたくさんの住宅や学校、工場が立ち並んでいましたが、一瞬にして無残に破壊され、当時、人口約24万人いたといわれるうちの約7万4千人がその年のうちに亡くなり、また、約7万5千人が負傷したといわれています。
原爆の猛烈な威力の要因は、爆風、熱線、放射線です。爆風で人々は吹き飛ばされ、無数に飛び散ったガラスやがれきで死傷した人もいました。熱線は、爆心地付近では3000~4000度に達しました。そして放射線は、その瞬間だけでなく、長い時間を経ても細胞をむしばみ続け、死に至らせることがあります。
私の両親も被爆者です。特に父は、原爆投下の数日後に爆心地付近へ行ったため、いわゆる原爆症の症状が1カ月程続いたそうです。何とか一命は取り留めましたが、多くの被爆者は、肉体的な苦痛に加え、差別や偏見といった精神的な苦しみも長く味わってきました。
「世界中の誰にも、二度と同じ体験をさせてはならない」。そういった強い思いのもと、活動されてきた被爆者のかたがたがいます。昨年12月に、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことは、被爆者の努力が認められた証であると同時に、現在の国際状況に対する危機感の表れでもあると思います。

▽長崎を最後の被爆地に
やがて来る被爆者のいない時代を見据えて、長崎市では、「ヒト・モノ・場所」の観点から、被爆者の思いを未来につなぐ取り組みを進めています。具体的には、原爆資料館などをガイドする平和案内人や被爆者の話を受け継ぐ語り部の育成、佐倉平和使節団も参加された青少年ピースフォーラムなど若い世代の平和交流、ナガサキ・ユース代表団の国際会議での発信や、高校生一万人署名の活動など、継承・発信を担う「ヒト」の人材育成に取り組んでいます。また、「モノ」については、被爆資料をただ展示するだけではなく、その持ち主の背景などもあわせて展示しています。「場所」については、現在、原爆資料館のリニューアルを検討しており、ワークショップを開催して、特に若い世代の意見を取り入れながら、ICT技術を活用した効果的な展示も検討しているところです。
平和への思いをもっとたくさんのかたと共有していくため、スポーツや文化、芸術を通して「平和の文化」を育む事にも取り組んでいます。
「Peace from 長崎 Peace from 佐倉」を合言葉に、佐倉市からも平和を発信していただければと思います。平和をつくる仲間として、一緒に平和の輪を広げていきましょう。

▽鈴木史朗市長
2023年4月、長崎市長に就任。長崎を「最後の被爆地」にすべく、被爆二世として、国際社会に核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を訴えている。

◆被爆体験講話「忘れ得ぬ“原爆”の記憶」
小谷孝子さん

小谷さん:あっちゃんは今いくつ?
あっちゃん:五つ!
小谷さん:そう、五つなの。私が5歳のときにはね、日本は戦争をしていました—
父が戦争に行って病気で亡くなった後、祖母、母、姉、兄、そして3歳の弟の6人家族で広島市に住んでいました。母は一人で家族を支えてくれましたが、食料難もあって生活が苦しくなり、田舎の親戚を頼って疎開することになりました。それが、1945年8月6日でした。
その日は、戦争中とは思えないくらい静かな朝で、私たち兄弟は、疎開の前に川で遊ぼうと家を飛び出しました。途中でのどが渇いた私だけ、家に帰って水を飲んでいました。そのとき、ガラス窓がピカッと光ってドーンとものすごい音が鳴り、柱が倒れ掛かってきました。幸い私は母に助け出され、かすり傷で済みましたが、外に出てみると広島市内は火の海です。皮膚が垂れ、お化けのようにぞろぞろと逃げてきた人たちが、私に向かって「お水ちょうだい」と手を出してきます。私は怖くて、ぼーっと立っていることしかできませんでした。
祖母、姉、兄は、大やけどや大けがを負いながらも帰って来ることができました。爆風で吹き飛ばされた弟も、母が何とか探し出しました。しかし、被爆から4日後に目を覚ますと、ほんの一口の水を飲み、「お母ちゃん、飛行機怖いね。お水、おいしいね」という言葉を残して3歳で亡くなりました。
—それから80年、日本では一度も戦争はありません。しかし、世界中が戦争のない、核兵器のない世界にならないと、本当の平和は訪れません。そんな思いで、2015年に「ピースボート」に参加し、被爆者8人で世界23カ国を回って被爆証言をしました。
あっちゃん:あっちゃんも行ったね!
小谷さん:そうね、あっちゃんも頑張ってくれたね。こどもたちから必ず出る質問がありました。それは、「原爆を落としたアメリカを恨んでいませんか」という質問です。私はこう答えます。「恨みを言いに来たわけではありません。恨みからは何も生まれません。皆さんと手を取り合って、世界中から核兵器のない、戦争のない、本当の平和な世界にしましょうとお願いしに来ました」。こどもたちは、「僕たちの時代で核兵器と戦争をなくします」と言ってくれて、とても嬉しかったです。小さな平和の種まきができたかなと思って、その平和の花が咲いてくれることを毎日祈っています。
皆さん、日本だけでなく世界中にお友達をつくってください。友達の国を攻めようとは思わないでしょう?困っていたら助けようと思いますよね?それが平和につながるのです。私たちの平和のバトンを受け取ってくれますか?

▽小谷孝子さん
6歳のときに広島で被爆。原爆で亡くなった弟の分身である腹話術人形の「あっちゃん」とともに、国内外で平和の大切さを伝えるために活動している。毎年、佐倉市内の小学校でも講演。