文化 さかい風土記174 丸岡藩領の高札場(こうさつば)

■町や村の掲示板
高札(制札(せいさつ))とは、江戸幕府や藩の法令・禁令を書いた木の板のことです。写真(1)のように、横長の五角形(駒形)で上部に屋根がつくのが一般的でした。
板面に書かれた内容としては、日常生活の規範を説いた忠孝札や、毒薬・偽薬の売買を禁止した毒薬札、キリシタンの取り締まりを命じた切支丹(きりしたん)札などが有名です。庶民に上意下達(じょういかたつ)で法令を伝えるための手段として、明治6年(1873)まで用いられました。
高札が掲示された場所を「高札場」といいます。町や村の道の辻や橋の傍(そば)など、人びとが行き来し、人目につきやすい場所が選ばれました。丸岡藩がまとめた『国乗遺聞(こくじょういぶん)』という書物によると、丸岡藩領では、丸岡城下町、滝谷出村、梶浦、五本村、山口村、板倉村、南横地村、一本田村、長畝村、女形谷村などに高札場がありました。
江戸時代の「滝谷浦絵図」(写真(2))には、滝谷出村(現三国町神明一〜三丁目)の高札場が描かれています。滝谷出村は九頭竜川河口近くに発達した町で、福井藩領の三国湊に隣接していました。図の「御蔵所」は、丸岡藩の年貢米を納める米蔵で、敷地内には藩の役所もありました。拡大図で「御製札」とあるのが高札場で、蔵所の前の通り(御蔵町通)にあります。高札に掲示された内容は、通りを行き交う多くの人びとの目に留まったことでしょう。
元禄8年(1695)、家中騒動での不始末を理由に、丸岡藩の4代元主本多重益(ほんだしげます)は改易(かいえき)(領地没収)となり、同年5月6日には丸岡城が幕府の使者に渡されました。この日、城下町の高札場には、定められた期日までに本多家の家臣が丸岡を立ち退くべきことなどが掲示されました。高札のあっさりとした文面に、城下町の人びとはかえって丸岡藩本多家の終わりを実感したのではないでしょうか。
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