- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県小海町
- 広報紙名 : 小海町公民館報 第556号
秩父事件五十回忌の祥月命日である昭和八年十一月九日南佐久郡穂積村東馬流(小海町)諏訪神社の一画に、一基の墓碑が建立された。「秩父事件暴徒戦死者之墓」である。
明治十七年(一九八四)十一月九日、この東馬流の地で秩父事件最後の激戦が行われ、十三名の戦死者が出た。このうち引き取りの無い九名の無名農民の墓である。
この墓碑の碑文によれば、「秩父事件参謀長菊池寛平之孫共建立」とある。この孫たちの中心となって、この墓の建立に奔走したのは菊池寛平の外孫高橋中禄である。
高橋中禄は、菊池寛平の末娘志満の長男である。中禄三十六歳の時である。「秩父暴徒戦死者之墓」の墓碑銘は事件当時困民軍の本陣として自宅を開放した井出直太朗が書いた。高橋仲禄が最初に直太郎に協力を懇請した時は、「今さら秩父事件でもあるまい、あまり派手に動かないように」とはねつけた。
昭和八年と言えば当時社会運動や民主主義運動が徹底的に弾圧されていた。昭和七年全国農民組合運動に弾圧の手が入り、佐久の活動家四十二名が検挙された「佐久全農事件」、昭和八年二月教員赤化事件(二・四事件)が起こり治安維持法違反の名で県下六百名が検挙され、佐久でも北佐久郡高瀬小学校校長を含め七名の検挙者があり、社会に与えた影響は大きかった。
国家権力による露骨な弾圧の手が広がる時代の真っただ中で、直太朗の心を動かし、墓碑名を書かせ、東馬流の地に記念碑を立てた高橋中禄の歴史的意識と行動力は、後世に町の文化遺産として遺り、秩父事件を研究する人たちに多大な感銘を与えている。
秩父事件から百年の昭和五十九年十一月九日「秩父暴徒戦死者之墓」の前に約百名が集い、「秩父暴徒汚名返上百周年墓前祭」が行われた。「今日からは暴徒ではない。真の自由民権運動の戦士である」と参集者が万感の思いを込めて合掌した。永く厳しい道だった。令和六年十一月九日は秩父事件から一四○周年にあたった。
■「井出直太朗」について
事件当時二十五歳。立憲改進党員。自由党嫌いの血気旺盛、菊池貫平と対等に振る舞った。木村熊二とは熊二キリスト教佐久伝道入り以来の交際がある。明治三十七年臼田佐久教会設立式には長老として選出されている。能筆家の一人。
町志中世編纂委員 成澤良夫