文化 おらが村の足跡 125

■阿久遺跡の50年(3)
今回ご紹介するのは、前回に引き続き、国史跡・阿久遺跡の発掘調査です。昭和52(1977)年4月、前年の第2次調査に続き、阿久遺跡の本格調査となる「第3次発掘調査」が始まります。

◯3次調査、“大祭祀場”の出現
「早くも集石群が出始め、環状になるという予想はますます強まる(6月6日/調査経過記録)」「環状集石群北辺部の下層に多数の住居址露呈しはじめ、さらに方形柱穴列も確認される(8月20日)」「平板状の平石8枚が列状に検出される。環状集石群の中心位置にあるだけに一同驚愕する(10月18日)」「列石の西側に立石検出(10月25日)」…。調査区の脇まで中央道建設が進んでいた、まさにその頃。阿久は縄文時代前期を通して営まれたムラと立石・列石を中心に大規模な環状集石群が廻る大祭祀場であることが明確になり、こうした発見に保存の声が高まっていきます。

◯見学者の増加、保存運動の展開
「マスコミ関係の取材と報道がひんぱんとなり、見学者も一日平均20名余をこすようになり、調査以上に神経がとぎすまされるようになる(10月6日)」。調査記録に記載されたように、当時は阿久遺跡が全国版新聞トップに紹介される等、非常に大きな注目を集めました。地域をはじめメディア、文化庁、諸々の大学教授陣、考古学会等々、数百人規模の見学会が複数回行われ、遺跡の保存をめぐっては村内外を巻き込んだ大議論に。翌年2月、県考古学会により諏訪市で行われた「阿久遺跡を守る県民集会」には600余名の参加者が集まり、その後文化団体や地域住民とともに行われた国・県・公団への陳情にむけた街頭署名活動では、全国から3万人に達するほどの署名が集まりました。
阿久をめぐる議論が白熱する中、調査は終了し季節は冬へ。保存への結論が示されるのは、次年度となります。

ご紹介した遺跡の出土品を役場1階ロビーに展示しておりますので、お越しの際はご覧ください。

問合せ:生涯学習課 文化財係
【電話(直通)】79-7930