文化 文化財めぐり 464

■一絲文守と法常寺
亀岡盆地で、保津八幡宮社や千手寺開基堂が鮮やかに再建された頃より遡ること数年、本梅盆地の西にある千ケ畑(畑野町)では、ひとりの僧が京都の喧騒(けんそう)を逃れてこの地で隠棲(いんせい)を始めていました。名を一絲文守(いっしぶんしゅ)といいます。
文守は、公家の愛宕(おたぎ)家出身の僧で、真言宗の僧として得度したのち、沢庵和尚に師事して教えを学びます。しかし、寛永六年(一六二九)に、後水尾天皇(ごみずのてんのう)による紫衣勅許をめぐって朝廷と幕府(徳川家光)が対立すると(紫衣事件)、後水尾天皇に同調した沢庵らは出羽国へ流されることとなりました。
こうした京都での政争を逃れるため、文守は千ケ畑に移住したのです。
ただし、すでに文守に帰依していた公家らはすぐに文守を見出し、寛永十一年には烏丸光弘が建物を寄進して、桐光庵と称しました。さらに、かの後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、文守に旧殿を下賜し、方丈・法堂・庫裏を整備させて「大梅山」「法常寺」の山号と寺号を与えました。
一絲文守が隠棲の地として移住し、後水尾天皇の勅願寺として整備された法常寺は、天皇自らが作庭を指揮したとされる庭園とともに、今も当時の景観を伝えています。