- 発行日 :
- 自治体名 : 京都府亀岡市
- 広報紙名 : 広報かめおか 令和7年5月号(第046号)
■岡部長盛と鍬山神社
長澤氏らが従軍した大阪冬の陣・夏の陣のとき、亀山城を預かっていたのは先に紹介した岡部長盛でした。長盛が城主だった時期に亀山城天守が整備されたことは先に述べましたので、ここでは長盛の亀山城主としての施策について見ていきます。
江戸時代後期に亀山藩士の矢部朴斎が著した地誌である『桑下漫録』所収の「亀山城地録」には、岡部長盛が慶長十五年(一六一〇)に「矢田宮所を改め、両宮を並べ建て」たとあります。
いっぽう、鍬山神社の伝える「鍬山神社略記」には、明智光秀の進攻によって祭田(さいでん)が没収されて荒廃していたところ、慶長十五年に亀山城主岡部長盛が社殿を造営し社田を寄付したとあります。社伝には本宮と八幡宮の「両宮」とまでは記されていませんが、岡部長盛が城主の時期に鍬山社を再興したという点では一致しています。
事実、鍬山神社所蔵文書には、慶長十五年三月三日付で岡部長盛が「亀山惣別当新坊常祐」に対して与えた、「鍬山社塔山林」での竹木刈取りや牛馬放飼いを禁じた禁制が伝えられています。鍬山社が、「新坊」などからなる神宮寺の境内にあったことがうかがえます。