文化 いにしえの風 斑鳩文化財センターだより

■「午」にまつわる斑鳩の古墳

明けましておめでとうございます。今年も斑鳩文化財センターをよろしくお願いします。
令和8年は「午年(うまどし)」で、聖徳太子は574年の午年生まれであるといわれています。今回は「午」にまつわる斑鳩の古墳と、その物語について紹介します。

◇駒塚古墳と調子丸古墳
駒塚(こまづか)古墳は、東福寺一丁目に所在する、全長49m以上の前方後円墳です。
駒塚古墳の名前の由来は、聖徳太子の愛馬「黒駒(くろこま)」を埋葬(まいそう)したという伝承によるものです。平成12(2000)年度から平成14(2002)年度にかけて発掘調査を行った結果、出土した土器などから、駒塚古墳は古墳時代前期(4世紀後半)の造営(ぞうえい)で、斑鳩町内で造営年代がわかっている最も古い古墳です。
駒塚古墳の南側約100mの場所に位置する調子丸(ちょうしまる)古墳は、直径30m程の5世紀中頃の円墳と考えられています。聖徳太子に仕え、黒駒の世話をしていた「調子丸(ちょうしまる)(麿(まろ))」の墓と伝えられています。平成12年に古墳の北側で行った発掘調査で、写真の土馬(どば)(馬の形をした土製品)が出土しました。頭部のみの出土ですが、馬のたてがみや手綱(たづな)などが精巧(せいこう)に表現されており、7世紀代に制作されたと考えられます。
駒塚古墳と調子丸古墳は聖徳太子伝説に関わる貴重な古墳であることから、平成4(1992)年に町指定文化財に指定しました。

●名馬「黒駒」伝説
『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』や『扶桑略記(ふそうりゃくき)』によると、推古天皇6(598)年に聖徳太子が諸国から数百頭の良馬を献上させた際、四本の脚(あし)が白い馬を見つけ、「この馬は神馬(しんめ)である」と感じとりました。この馬こそ、甲斐(かい)国(山梨県)から献上された黒駒(毛色の黒い馬)で、太子は従者の調子丸に命じて世話をさせ、自身の愛馬としました。
太子が黒駒に乗ると、馬は天高く飛び上がり、富士山を越えて信濃(しなの)国(長野県)を過ぎ、三日後に飛鳥の地に帰ってきたという伝説があります。
法隆寺東院(とういん)の絵殿(えでん)の壁を飾っていた「聖徳太子絵伝(えでん)」(国宝・現在は東京国立博物館所蔵)に、富士山を越えていく黒駒に乗った聖徳太子が描かれています。
黒駒は聖徳太子が亡くなった際には、何も口にせず、太子の墓の前で大きくいななき、亡くなったといわれています。
なお、法隆寺聖霊院(しょうりょういん)の東側の厩(うまや)には、江戸時代に制作された黒駒と調子丸の木像が安置(あんち)されています。

今年は、12年に一度の「午年」、「午」にまつわる場所を訪れてみませんか?

問合せ:地域振興課(斑鳩文化財センター)
【電話】0745-70-1200