文化 〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

■毛利軍の防長侵攻(4) 伊陸の民衆の反抗
前回は小早川軍が伊陸の高山寺(こうざんじ)城を落城させるとともに、17人を生け捕りにして村民の目の前で磔(はりつけ)にした様子を紹介しました。由宇においても日積においても磔を村民に見せることはありませんでしたが、伊陸に限って残酷な場面を見せつけたのです。なぜ非道な措置をとったのでしょうか。それは伊陸村民の強い反抗があったからです。城に立てこもった武士だけでなく、伊陸村の村民たちも外敵を拒んだのです。村人が小早川軍の背後から石を投げたり、罵声をあびせかけたりしました。中には鎌(かま)や鍬(くわ)を振り上げる者もいました。そうした情景を小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)はしかと目撃し、伊陸村民を手なずける困難さをひしと感じました。アメとムチの両方を使わねばなりません。まずはムチとして残忍な磔を見せつけて、恐怖心を染み込ませたのです。そしてアメとして年貢の率を非常に低くしました。町野(まちの)氏の支配よりも小早川軍の支配の方が得であると感じさせたのです。ただし低い年貢率はあくまでも臨時的な措置でした。
伊陸村民は後に、高山寺城の跡地に神社を建てて、勇敢であった町野一族の霊を祀(まつ)り、やがて伊陸村の守り神にしました。ところで伊陸村民の強い郷土愛はどうして生まれたのでしょうか。まずは伊陸盆地がまとまった地形であることに起因すると考えられます。古来一体感を持って暮らし、由宇川と島田川上流の四割(しわり)川の守りを固め、盆地内で平穏な暮らしを維持してきたのです。また町野氏は強権的な態度をとらずに、情を持って村民と接していました。さらに村民にはプライドもありました。伊陸の高山寺は、周防国で最も格式の高い安国寺(あんこくじ)(南北朝時代に戦死者を弔うため国ごとに建てられた寺院)です。伊陸は周防国の中枢であるとの自尊心が村民にもあったのです。
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫

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