- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県大野城市
- 広報紙名 : 広報「大野城」 令和7年5月15日号
■大野城心のふるさと館のおすすめ(17)
◇竹田家文書の紹介3
昨年奈良国立博物館で「第76回正倉院展」と同時に「聖武(しょうむ)天皇の大嘗祭(だいじょうさい)木簡」とい特集陳列が行われていました。平城京(へいじょうきょう)の発掘調査で出土した聖武天皇の大嘗祭にかかわる奈良時代の木簡の展示です。とても珍しい資料ですので、じっくり観覧していると「村社郷高負里(むらこそごうたかうのさと)大嘗分(だいじょうぶん)」と書かれた木簡の説明に「竹田家文書」と書いてありました。「村社郷高負里」というのは、奈良時代中ごろの徴税(ちょうぜい)単位のことですが、どうして竹田家文書と書かれていたのでしょうか。
竹田家文書の中世史料の中には、備中国(びっちゅうのくに)新見荘(にいみのしょう)(現在の岡山県新見市)関係の史料が含まれ、この中に「村社郷高負里」に関係する2点の文書があります。1つ目は、明応元年(1492)の「曽原忠職(そはらただもと)・忠家等(ただいえら)連署売券(れんしょばいけん)」で、曽原忠職と忠家の二人が「村社郷之内高生村」にある田を売り渡したときの文書です。木簡の「高負」も文書の「高生」も、よみは「たかふ」や「たかう」で通じていると考えられます。
2つ目は、70年後の永禄5年(1562)の「備中国村社郷小河分坪付(つぼつけ)」で、「村社郷」の田などの土地のことが記録されたものです。この中に「たかう村」と見えます。
この2つの史料が竹田家文書にあったことから、木簡の説明に「竹田家文書」と書いてあったのです。
奈良時代の木簡に書かれた「村社郷高負里」は、約700年後の竹田家文書の中世史料に「村社郷」と「高生村」と見え、長い間人々の中で使われ続けていたことが分かります。
今回、福岡藩の儒学者(じゅがくしゃ)の文書である「竹田家文書」に、岡山県の中世文書が含まれ、その中には古代の平城京とも関係する内容があることが分かりました。思いがけず福岡・岡山・奈良をつなぐこととなった竹田家文書ですが、これからも調査を進め、新しい発見を紹介していきます。
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